
- 平成11年10月1日・通巻第80号
家のまつり
今年も秋祭りのシーズンがやって来ました。岩津天満宮でも10月24日に「筆まつり・献書展」が執り行われますが、各地の氏神様でも秋の御例祭が11月頃まで執り行われます。
日本人は永い歴史の中で、自然と共に生きる生活感を培ってきました。稲作中心の生活の中で、春には今年の稲が豊作でありますように、秋には、今年の初穂を供え収穫に感謝する神祭りが行われてきました。
自然の大きな力に畏敬の念を抱き、それを受け入れ、共に生きようとするその中で、日本人は自然に生かされているという、感謝の気持ちを身に付けてきたのです。
近頃、神棚を祀る家庭が随分少なくなってきました。ライフスタイルの変化で家を新築しても、和洋折衷や洋風だと神棚を祀るスペースがなかったり、設置しにくくなるという原因が考えられます。
しかし、家の中に尊い場所を一ヶ所備えることによって、日本人は、私たちの生活を常に見守って下さる、尊い存在を感じ取ることが出来るのです。仏壇や神棚に手を合わせる親の姿を見て育った子供たちは、先祖や、目に見えぬ神の存在を感じ取るに違いありません。そして、自分はその力によって生かされているんだと、感じることが出来ることでしょう。
最初は小さな神棚で結構です。伊勢神宮のお札と、氏神様、そしてご自分の崇敬する神社のお札をお祀りしてみて下さい。こどもが一生懸命書き上げた習字や、図工の作品を神様に見ていただいたり、珍しい到来物などがあれば、まず神様にお供えをしてから、家族で頂く習慣を着けたらどうでしょうか。
これが家のまつりです。この家のまつりを通して、子供たちに、目には見えないけれど、尊くて、大切にしなければいけない存在があることを、教えてゆかねばならないと思います。
子供たちこそ、未来の日本をたくす宝です。目に見えない尊い存在が、家のまつりから自然に定着していけば日本は本来の、慎ましく、和やかな、明るい世の中になるに違いありません。
- 平成11年7月1日・通巻第79号
国際社会と国旗、国歌
10年前のことですが、アメリカ・ニューポートビーチ市へ、岡崎市との姉妹都市提携五周年の親善使節団に市民代表の一員として参加した時のことです。シティホールの前庭で、両市の関係者が集い、提携5周年の宣言書の調印式が行われました。そして両国国旗の掲揚と、国歌の演奏、国旗国歌儀礼が始まりました。アメリカの方は当たり前のように手を胸にあて、両国の国歌の演奏の流れる中、国旗に対し敬意を表します。
私どもも当然のことと、厳粛な雰囲気の中、姿勢を正し国旗に対し敬意を表していました。その時、同行した岡崎市内の高校生諸君が私語を始めたのです。すかさず、近くにいたニューポートビーチ市の方が、彼らに注意をされました。しかもその隣には彼らの学校の教師が知らぬ顔で立っているのです。
いま国会で、国旗・国歌法案が議論されています。また全国の教育の場で、国旗、国歌の扱いに関連していろいろな問題が起こっています。しかし、国際間の常識として、それぞれの国が自国の誇りを保ちつつ、互いに尊重しあうための象徴となるのが、国旗、国歌なのです。
国旗と国歌に対する礼儀は国際人としての最低限のマナーであり、自国他国を問わず敬意を払うことの出来ない人は、国際人として通用しません。 今の学校教育では、このことを、恐らく子供たちに教えていない、と言うよりも教えられないというのが現実なのでしょう。
戦後教育は、一時期の日本の不幸な歴史を強調し、日本の長い歴史や伝統のすばらしい点を教えず、「日の丸」は軍国主義の象徴、「君が代」は天皇が支配する世の繁栄を歌っており、主権在民・民主主義に反すると、子供たちに教えてきました。むしろ、国旗を排除し、国歌を歌わないことや、それを批判することが、民主的で進歩的であり、評価される考え方だと教えられてきたように思います。
どうも戦後の日本人は国旗、国歌の問題を、いま生きている者の価値観だけで議論しているように思います。国旗儀礼の最中に私語を始めた生徒たちを、あながち攻めるわけにもいきません。国を愛し、国旗、国歌に敬愛の念を持つことは、国際親善を目指す上での大切なルールです。そして、国旗、国歌はそれぞれの国民が歩んできた歴史や経験、祖国に対する誇りや理想の象徴なのです。
どの国でも同じように、国旗、国歌がその国の独立の象徴として国民を励まし、勇気づけ、現在の熾烈な国際社会を生き抜いてゆく支えになっています。いまの日本のように、歴史のマイナスの遺産ばかりを自らに刻みつけるのは、健全な精神状況とはいえません。いま私たちは日本人として生まれてきたことを誇りと受け止め、日本の素晴らしい、誇るべきものをなくさないようにして行かねばならないと思います。
- 平成11年4月1日・通巻第78号
理屈抜きで断言すべきこと
エジプトの考古学研究で有名な吉村作治さんが、今年の仙台市の成人式に記念講演の講師として招かれた折のことがマスコミに報じられていました。
新成人たちが私語を交わしたり高笑いをしたり、あげくには場内で大声で携帯電話をかける始末で、吉村氏の話を全く聞かなかったということです。なかには会場外で友達とダベッている若者も多く、市の職員が何とか話を聞いてもらおうと、涙ぐましい努力で誘導するけれども彼らには馬耳東風だったそうで、これにはさすがの吉村先生も憤慨して講演を途中でやめてしまわれたと言うことです。
学級崩壊という言葉を耳にするようになりました。以前では考えられなかったことですが、小学校で学級崩壊が始まったと聞きます。子どもたちが授業中に教室を歩き回ったり、二、三人で固まって私語をしたり、教師の言いつけを聞かず、全く無視をするという事態になってしまったと言うことです。女性教諭の多い小学校での先生方のご苦労は察してあまりあります。
一体なにがこんな状況を作ってしまったのでしょうか。少年を守るため、更生させるための少年法は、性善説の大前提に立っていますが、これは少年はひたすら善であるとして保護し愛を注ぎ立ち直らせていくことに重点を置いています。
本来ここで言う愛は、子どもたちが人間として自立できるところまで育てていく、と言うことでありましょう。少年法にも見られるように現代の教育は、子どもたちをひたすら善なるものととらえ、子どもの言葉を聞き、その心をそのまま受け入れることが重要視されているように思います。愛と甘やかしの混同は、ユートピアを目指した戦後の教育の特徴のような気がします。子どもたちは教師に向かって、なぜ体を売って収入を得ていけないのか、殺人をしていけないのか、他人に迷惑をかけなければ何をしても自由ではないかと話すそうです。
こうした子どもたちに、教師や大人ははっきりとした答えを見つけられないでいます。しかしここは理屈抜きで、許されないことは許されないと断言すべきでしょう。
人として本来の姿を取り戻すのに今大切なのは、戦後の夢から目覚め、理屈抜きで子どもたちに愛をもった叱責を与えることだと思います。
