• 平成21年9月1日・通巻第123号

陛下の大御心を拝し

日本国憲法の第一条に天皇条項が書かれていますが、これをじっくりお読みになった方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。
日本国憲法第一条に「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって・・・」と謳っていますが、ではどのくらいの国民が天皇の正しい意味を知っているのでしょうか。殆どの国民が知らないでいると言っても過言ではないと思います。
そこで、「天皇」を知る上での良書を紹介しましょう。今年の六月に出版され、現在十七万部を越えた、小林よしのり著「天皇論」(小学館)です。漫画ではありますが、天皇に関する大著で、一般読者に難解な事柄が判りやすく書かれています。是非ご一読をお薦めいたします。

権力を持たず、常に国民の生活に心を配り、国民の為に祈る我が国の天皇は、西洋の絶対君主とは全く違います。天皇は国民のことを「大御宝・おおみたから」と申され、千年以上昔から祭祀を通して「国平らかに 民安かれ」と公正無私の祈りを続けておられるのです。天皇の存在は世界に類のない我が国柄の表象であって、その根幹に大きな安定感を与えています。
ここで天皇皇后両陛下御結婚満五十年に際して、記者会見での皇后陛下のお言葉を、少々長いですが引用(宮内庁HP)いたします。

「陛下はご即位に当たり、これまでの皇室の伝統的行事及び祭祀とも、昭和天皇の御代のものをほぼ全部お引き継ぎになりました。また、皇室が過去の伝統と共に、「現代」を生きることの大切さを深く思われ、日本各地に住む人々の生活に心を寄せ、人々と共に「今」という時代に丁寧にかかわりつつ、一つの時代を築いてこられたように思います。
伝統と共に生きるということは、時に大変なことでもありますが、伝統があるために、国や社会や家が、どれだけ力強く、豊かになれているかということに気付かされることがあります。一方で型のみで残った伝統が、社会の進展を阻んだり、伝統という名の下で、古い慣習が人々を苦しめていることもあり、この言葉が安易に使われることは好ましく思いません。
また、伝統には表に現れる型と、内に秘められた心の部分とがあり、その二つが共に継承されていることも、片方だけで伝わってきていることもあると思います。WBCで活躍した日本の選手たちは、鎧(よろい)も着ず、切腹したり、ゴザルとか言ってはおられなかったけれど、どの選手も、やはりどこか「さむらい」的で、美しい強さをもって戦っておりました。
陛下のおっしゃるように、伝統の問題は引き継ぐとともに、次世代にゆだねていくものでしょう。私どもの時代の次、またその次の人たちが、それぞれの立場から皇室の伝統にとどまらず、伝統と社会との問題に対し、思いを深めていってくれるよう願っています。」

天皇陛下の大御心を、皇后陛下のお言葉から伺うことが出来ます。陛下の大御心を拝し、私どもは日本国民であることに誇りと責任を持ち、この国風を次世代に守り伝えて行かねばならないと思います。

 

  • 平成21年7月1日・通巻第122号

御神威いよいよの発揚を願って

当社は宝暦9年(1759)に信光明寺第廿二世一誉上人の発願で現在地に社祠が建立され、明治の神仏分離により信光明寺の所管から離れ、神社として地元岩津の村が管理して参りました。しかし、明治12年の火災で堂宇は悉(ことごと)く烏有(うゆう)に帰し、苦難の時代を経て参りました。
この頃、越中立山の芦峅寺(あしくらじ)、大阿闍梨鑁禪(ばんぜん)(佐伯鑁禪)師が三河地方布教の折に、碧南新川の人造石発明者服部長七の屋敷を常宿にしておりました。加賀の前田候の血筋を受け継ぎ、篤い天神信仰を持つ大阿闍梨は岩津天神の窮状を憂い、大起業家の長七翁に援助を依頼しましたが、翁はこれを快諾し万般を引き受けて師と共に社殿再建の為に奔走いたしました。そして明治33年6月に臨時祭典を執行、明治44年に御本殿を、前後して社務所・直会殿を建立。そして大正8年に現在の拝殿を造営し、長七翁はそれを見届けるかのようにその年の7月18日、境内の一隅で帰幽いたしました。
その後、長七翁の遺志を継ぎ、祖父服部廉平が神楽殿を造営、父名誉宮司が宮司となってから数々の御造営を為し遂げて、今日の岩津天満宮の御神域殆どすべてを作り上げて参りました。
平成10年1月宮司を交代して以降は、大規模の御造営はいたしておりませんが、長七翁以来の遺志を継ぎ、岩津天満宮の御神威を更に輝かしめ、ご崇敬賜ります皆さまの篤志の報いるためにも、御神忌千百年大祭の記念事業や、境内整備に微力を盡して参りました。

そこで、来る平成24年に菅公御神忌1110年祭を迎えるに当たり、記念事業として、善男善女が心を寄せ、築き上げて参りました岩津天神信仰の結晶であります本殿・拝殿の、耐震工事とお色直しを執り行ない、子々孫々に伝えて参りたいと存じます。今後関係各位と協議をいたしながら、事業の概要を詰め、本年後半より広くご崇敬皆さまのお力添えを頂き、御神威の灼然(いやちこ)を願い奉賛活動を勧めて参りたく存じますので、何卒ご理解ご協力を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。


 岩津天満宮 主な御造営記録

明治12年    火災により社殿烏有に帰す
明治33年〜40年代前半 仮本殿・社務所・直会殿造営
明治44年1月  御本殿造営
大正8年    拝殿造営
昭和4年4月   神楽殿造営
昭和27年    菅公御神忌千五十年大祭
        社務所参籠堂渡り廊下造営
昭和43年    直会殿改築
昭和46年    社務所(熱田神宮宮庁移築)造営
昭和55年12月 本殿造営
昭和63年11月 社務所飛梅殿造営
平成3年11月  長七庵造営
平成8年12月  一の鳥居(特殊合金製)建立
平成14年3月  菅公御神忌千百年大祭
       手水舎造営
平成14年11月 和魂漢才碑建立
平成16年12月 水洗式公衆トイレ造営
平成19年9月  境内南西石垣改修
平成19年12月 余香殿なおらい造営
平成20年3月  境内西造園(曲水の道)
平成20年6月  白太夫社(末社)社殿造営
平成20年8月  重軽地蔵堂造営
平成20年8月  天皇陛下御即位二十年記念
       境内玉垣建立
平成21年6月  稲荷社神狐建立(服部貞弘名誉宮司奉納)
平成21年6月  正面石段最上段改修竣功

 

  • 平成21年5月1日・通巻第121号

神谷葵水遺墨作品

岩津天満宮献書展は昭和30年代に始められ、その後諸事情により一旦中断いたしましたが、昭和59年に復活し昨平成20年に第25回を数えることになりました。この献書展復活後、第1回から第17回まで審査委員長をお勤め頂きました神谷葵水先生は、惜しまれながら平成19年8月に逝去され、昨年11月に岡崎市美で遺墨展が開催されました。此の度、葵水先生のご遺族から御縁のあった当宮へ作品を寄贈したい旨お申し出があり、清明祭当日の4月5日、葵水先生のご遺族関係者にお越し頂き、遺墨作品奉納式を執り行いました。
当宮には戸田提山先生、神谷葵水先生始め多くの書家の先生方から作品を奉納頂いておりますが、此の度ご遺族から奉納頂き社務所飛梅殿内で参拝者にご覧頂いております遺墨四作品をご紹介したいと思います。

「温」(甲骨文字・ぬくむ)『性霊集』
冬天無暖景。則梅麦何以生華。「冬天(とうてん)に暖景(だんけい)無(な)くんば、則(すなわ)ち梅麦(ばいばく)何(なに)を以(もっ)てか華(はな)を生(しょう)ぜん。」
冬季に暖かい日の光がなければ、梅や麦がどうして花を咲かせることができようか。いくら冬季であっても暖かい天地の恵みがあるからこそ、梅麦は花を咲かす用意ができるのである。

「心安体亦舒」「心(こころ)安(やす)らかに体(たい)も亦(ま)た舒(の)ぶ」『白楽天』
心が安らかだったら、身体もまたのびのびする

「寿」(ことぶき)『趙光逢』
寿萬年(じゅばんねん)祚百世(そはひゃくせい)
万年も長寿に、百代も幸福に

「兼通」「兼(か)ね通(つう)ず」 『書譜』
遅筆があり、速筆があり、そして遅速を兼ねた上での遅筆が理想であるとする。技術と精神のバランスーー心閑手敏ーーと。

何れにしましても、書の技を磨くことは、単に技術だけでなく学・識を磨くこと、精神・心を磨くことに相違はありません。遺墨展で拝見した葵水先生の作品は勿論ですが、先生の書簡は、正確な崩しは申すまでもなく、人柄に裏打ちされた洵に美しく、立派な芸術でありました。日本人として見習いたいものだと痛感いたしました。