• 平成20年9月1日・通巻第117号

天皇陛下御即位二十年奉祝 -境内整備事業を終えて-

今上陛下御即位二十年の佳節を迎えるにあたり、永い歴史を歩んで参りました直会殿改め余香殿改築を柱とした境内整備事業を昨年来進めて参りましたが、此の度一部工事を残してほぼ完成することとなりました。事業を推進するにあたり、ご崇敬各位より尊いご浄財のご奉賛を賜り、お陰様にて当初考えておりました以上に立派に整備を終えることが出来ました。
以下ご報告を兼ね工事の概略を記し、衷心より厚く御礼申し上げます。

余香殿改築工事
平成19年  4月 1日 直会殿取壊し清祓
 4月19日 直会殿改築地鎮祭
 6月11日 工事契約締結
11月27日 中庭 梅古木植栽
12月25日 直会殿竣功清祓
       新名称を余香殿と決定

平成20年
 1月25日 余香殿竣功奉祝祭 披露

境内正面西側石垣積直し改修工事
平成19年
 1月28日 境内整備工事地鎮祭
 西側旧玉垣撤去
 9月10日 工事完了

玉垣改修工事
平成20年
 1月28日 東側旧玉垣撤去
 2月12日 玉垣建立工事開始
 2月21日 建立工事完了
 2月29日 字彫り工事
 8月18日 最終字彫り完了

西側境内苔庭整備工事
平成20年
 2月 5日 工事開始
 3月 2日 筆塚・鷽塚等移設完了
 3月21日 曲水の道完成
       梅移植完了
 4月14日 苔張り完了
 7月12日 雨落ち工事完了

文化11年建立の石灯籠一対積直し工事
平成20年
 4月14日 工事完了

正面石段最上段の手摺取替
平成20年
 4月 2日 工事完了

白太夫社造営
平成20年
 6月21日 仮殿遷座祭
 6月26日 新社殿建立
 6月28日 新社殿清祓
       本殿遷座祭
重軽地蔵堂造営
平成20年
 8月12日 立柱
 8月18日 竣功 清祓

尚、今後東側境内の整備も、時機を見て執り行ってまいります。引き続きお力添えを賜りますよう、よろしくお願いいたします。
 宮司 服部憲明

 

  • 平成20年7月1日・通巻第116号

中興の祖 服部長七翁

当社の中興の祖である服部長七翁は大正八年七月十八日、終の棲家として晩年を過ごし奉仕怠らなかった岩津天満宮の一隅で、数え八十才の波瀾万丈の生涯の幕を閉じました。今年はそれから数えて八十九年の星霜を送り迎えることとなりました。

明治三十七年、長七翁は六十五才にして一切の事業から手を引き、経済的に勢いのあったこれまでの生活とは打って変わって困窮を極めても、淡々として知人宅に身を寄せ余生を送っていました。愛知県知事を始め県当局や全国の旧知は、大工事の請負を計画して晩年を飾りたいと申し出ましたが、長七翁は国家社会の事業を念頭にし、いやしくも請負人の利益を考える工事は行わないと固辞しました。
そして明治四十五年に、かねてより事ある度に参籠などをして崇敬の篤き心を寄せていた、岩津天満宮の奉仕に専念しようと天神山に隠棲(いんせい)し、崇敬者に働きかけて社殿の増築や整備などに勤め、今日の岩津天満宮の基礎を作ったのでした。
隠棲したとはいえ、時には国家の将来を憂え、政治の神様と言われた尾崎萼堂(がくどう)翁に私行上の忠告をしたり、旧知の安田善治郎翁には東京大阪間快速の東海電車の敷設計画や、大東京港の築港工事などを実現するよう話していたそうです。
私の祖父(長七の婿養子・服部廉平)から聞いた話ですが、地元岩津の人々が夜岡崎まで提灯なしで歩いて行けるように、境内東の梅苑山頂に、灯台として目から光を放つ大きな観音様の頭を作ろうとしていたそうです。その絵図面は今でも残っています。
大正六年八月に門弟旧知の方々が相議して、今の境内東、梅苑入り口に遐壽碑を建立しました。

篆額(てんがく)は渡辺渡工学博士、撰文並びに書は旧知の漢文学者織田完之氏により長七翁の業績の数々が格調高く謳われています。その一説に
天授工夫敏測量
人工造石令名揚
利用報国渾異常
台閣諸侯咸賛襄

その才能は天が授けたものであり、人造石によって名を挙げ、常に国のために力を尽くした翁を、錚々たる人々が称えている、と。除幕式には松井茂愛知県知事も臨席され、数百名の参列者があり極めて盛大であったといいます。長七翁の喜びは大変なものであったでしょう。
我が国産業革命前期をになった職人技術家の一人として、資本主義発達途上に大きな足跡を残したのです。

過日東京農大の近藤三雄教授からお電話を頂き、服部長七翁が東京京橋銀座一丁目七番地の人造石を使った自家(服部組本店)の屋上に立派な屋上庭園を造ったという記事が明治二十九年(一八九六)八月二十一日の読売新聞朝刊に載っているが、その写真はありませんか、とお尋ねがありました。またその後明治二十九年七月二十五日の日本園芸会雑誌第七十四号に「服部氏の屋上の庭を観る」と言う記事が掲載されていることが判明。残念ながら日本初と思われる屋上庭園の写真は存在しませんでしたが、今の時代に注目されている屋上庭園を、長七翁が百年以上前に実際に作り上げていたということに大いに驚きを覚えました。

毎年「長七忌・道具供養祭」を奉仕して、起業家であり国士であった服部長七翁の気概、時代を見据えた先見性と心情(おもい)を、正しく顕彰せねばならないと痛感いたします。

 

  • 平成20年5月1日・通巻第115号

皇室は 祈りでありたい

天皇皇后両陛下には、この四月十日にご成婚五十年目をお迎えになられました。今上陛下の御即位二十年と共に洵にお目出度く、国民斉しく慶賀に堪えないところであります。
当日の産経新聞、朝刊「きょうの言葉」に皇后陛下美智子さまのお言葉が紹介されていました。それは

「皇室は 祈りでありたい」

という言葉でした。この言葉について長女の紀宮さま(清子内親王殿下・現黒田清子さん)が平成十五年のお誕生日に際して、宮内記者会の質問に対する文書ご回答の中で次のように述べておられます。少々長いですが、宮内庁HPより引用いたします。

以下引用

「以前にも述べたかと思いますが、皇后さまがこれまで体現なさってこられた「皇族のあり方」の中で、私が深く心に留めているものは、「皇室は祈りでありたい」という言葉であり、「心を寄せ続ける」という変わらないご姿勢です。ご結婚以来、障害者スポーツや青年海外協力隊を始めとする多くの活動が、両陛下が見守られ弛(ゆる)みなくお心を掛けられる中で育ち、発展していきました。また、戦争や災害犠牲者の遺族、被災者、海外各国の日本人移住者、訪れられた施設の人々などに対しては、その一時にとどまらず、ずっとお心を寄せ続けられ、その人々の健康や幸せを祈っておられます。良きことを祈りつつ、様々な物事の行く末を見守るという姿勢は皇室の伝統でもあると思いますが、決して直接的な携わり方ではないにもかかわらず、その象徴的な行いが、具体性を持った形で物事に活かされ、あるいは人々の心に残っていることは、感慨深いものがあります。

更に平成十六年の文書ご回答の中でも、次のように述べておられます。

「私の目から見て、両陛下がなさってきた事の多くは、その場では形にならない目立たぬ地味なものの積み重ねであったと思います。時代の要請に応え、新たに始められたお仕事も多くありましたが、他方、宮中での諸行事や一年の内に最小でも十五、陛下はそれに旬祭が加わるため三十を超える古式装束をつけた宮中三殿へのお参りなど、皇室の中に受け継がれてきた伝統は、全てそのままに受け継いでこられました。以前皇后さまは、今後皇室のあり方は変わっていくかとの質問に対し、「時代の流れとともに、形の上ではいろいろな変化があるでしょうが、私は本質的には変わらないと思います。歴代の天皇方が、まずご自身のお心の清明ということを目指され、また自然の大きな力や祖先のご加護を頼まれて、国民の幸福を願っていらしたと思います。その伝統を踏まえる限り、どんな時代でも皇室の姿というものに変わりはないと思います。」と述べておられます。累々と受け継がれてきた伝統を守ることと人々の日常に心を添わせることが、少しの矛盾もなくご生活の中に入っている、そのような日々を重ねておられることが、象徴としての存在である陛下、そして皇后さまに人々がリアリティを感じている由縁ではないかと思われます。」

皇室が日頃から常に国家の安寧と、私ども国民の幸福をお祈りになっているという、もっとも重要な営みと、陛下の大御心を、一般国民はほとんど知らされておりません。
この祈りの形である祭祀を、神職としてご奉仕申し上げる私どもは、このことを肝に銘じて、日々の祭祀に勤しまねばならないと存じます。
平成八年秋の園遊会に招かれた当社服部名誉宮司が、ネームプレートをご覧になった美智子皇后陛下から
「あ、天満宮ですか。日々のご奉仕ご苦労さまです」
と声をおかけいただ話を思い起こし、斯の道のために微力を捧げねばならないとの決意を新たにした次第であります。