
- 平成20年3月1日・通巻第114号
菅公と梅
今年の天神山の梅は、例年と比べ開花が若干遅かったのですが、この拙文をお読みいただく頃、境内や梅苑の約四百本の梅の花は、きっと見頃を迎えていることでしょう。
梅はもともと中国原産の花で、唐の時代に大陸から遣唐使や修行僧らによって種苗がもたらされ、霊薬として日本へ入ってきました。
その昔、梅は宮殿の薬園や庭園に植えられ、一般には見ることの出来ない神秘的な植物であったようです。平安時代の貴族社会では梅花の宴がひらかれ、梅の霊力により無病息災を祈り、歌を詠みあったと言われています。
ご承知のように、全国の天満宮では様々な梅鉢紋を御神紋としています。御祭神である菅原道真公(菅公)が、梅をこよなく愛されたことに由来しているのですが、そのことを菅公の詠まれた歌によっても知ることが出来ます。
東風ふかば
匂いおこせよ 梅の花
主なしとて 春な忘れそ
この歌はあまりにも有名で、永い歴史の中で広く人々に膾炙されて参りましたので、皆さまもご存じと思います。
時の左大臣藤原時平の策略により無実の罪を背負われ、西海の筑紫の国太宰府へ左遷される際に、住み慣れた京の自邸の紅梅殿の梅に、別れを惜しみ想いを込めて詠まれた歌です。
その後、主を失ったこの梅は、公を慕って一夜にして太宰府へ飛んできたと言われています。これが「飛梅伝説」ですが、公が如何に梅を愛されていたかを知る信仰譚であります。
更に菅公が五才の時に詠まれたと言われる歌があります。
美しや
紅の色なる梅の花
阿呼が顔にも
つけたくぞある
道真公の幼名は、「阿呼(あこ)」と申され、幼少の頃は病弱であったようですが、母の熱心な観音信仰によって、その後は健やかに成長されました。そして幼い頃から学問を好まれ、五才の時庭に咲く梅花を見て、この歌を詠まれたのです。
また十一歳には、月をご覧になり、初めての漢詩を詠まれました。
月耀如晴雪
梅花似照星
可燐金鏡轉
庭上玉房馨
「月の輝きは晴れたる雪の如し 梅の花は照れる星に似たり 憐れむべし金鏡転じ 庭上に玉房香れるを」
幼くしての菅公の才能は、大いに周囲を驚かせました。
成長するに従い武道の腕も磨かれ、文武両道の誉れ高き学者として、政治家として手腕を発揮され、右大臣まで昇られたのです。
その後の、公の急転直下の御生涯は多くの知るところですが、今や学問・子供の守り神、天満宮の御祭神として広くご崇敬を受けることになりました。
菅公に想いを馳せながら天神山の梅をご覧頂ければ、御祭神も神応有らせられ、一層心和ますことができると存じます。
- 平成20年1月1日・通巻第113号
新春感懐
新年明けましておめでとうございます。輝かしき平成二十年戊子(つちのえね)歳の新春を迎え、皇室の弥栄と聖寿の万歳を寿ぎ奉り、岩津天満宮ご崇敬の皆々様の御平安をお祈りいたします。
昨年から進めております、岩津天満宮境内整備事業のうち、境内西側の石垣改修工事も無事終えることが出来ました。これも偏にご崇敬下さいます皆様方のご奉賛の賜物と、有り難く厚く御礼申し上げます。
又、直会殿もほぼ完成し、一月二十六日より広く皆さまにご利用頂けることとなりました。残すは玉垣の建立と、境内の造園工事のみとなり、ご崇敬皆さまの変わらぬご奉賛を賜りつつ、立派に完成させてまいりたいと存じます。
さて、近年はいろんな意味で、女性の時代がやって来たと言われておりますが、神社界におきましても女性が神職(神主)の一割を占めるようになって参りました。有名な大分県の宇佐神宮にも女性の権宮司が誕生いたしましたが、世間ではまだまだその認識は薄いようです。
実は日本の平塚雷鳥らの女性運動に先駆けて、神社界で神職による女性運動(女性神職の任用)が行われていたことを、洵に恥ずかしながら最近知りました。近代日本の女性運動を、日本の伝統文化の中心である神社の神職が最初に起こしたというのです。
女子神職任用について上程議論されたことが、昭和五年五月開催の財団法人全国神職会の評議員会の記録に残されており、その後何年も上程されたようですが、実現を見ませんでした。
この問題を推し進めたのは、山口県の宮本重胤という、後に神社庁長も務めた高名な神職でした。経緯は詳らかではありませんが、会議で一番問題になったのは「穢れ」と「学力」で、当時の一般的な考えでは相容れられず、随分苦労をされたようです。彼の「穢れを忌むというのは仏教思想の現れで、元々の日本の伝統的思想ではない」という反論には、大いに驚かされました。
しかしこの運動は、実は明治三十年代に遡ります。宮本は女性に対する教化活動を重要視し、活動を日本全国から海外へまで目指しました。そして明治三十八年に「大日本敬神婦人会」を創設、講演活動などを通じ神道の教化と共に女性神職任用、神職婦人の意識昂揚と団結、女性参政権獲得などを目的として、会員はハワイ、アメリカ本土、朝鮮、満州、台湾、樺太に広げていきました。
平塚雷鳥らの婦人運動は、明治四十四年「青鞜社」を結成し数年間続きますが、宮本の運動は日米開戦頃まで続きました。
しかし、女性運動といっても、雷鳥らのインテリが「自由」を標榜したのに対し、宮本は庶民層の「良妻賢母」を理想としたのです。
この時代、神職の後継という切実な問題もありましたが、近代日本の女性運動が日本の伝統宗教の中から産まれ、その先進性は世界宗教の中でも、遙かに秀でていたということを記憶に留めておきたいと思います。
- 平成19年10月1日・通巻第112号
岩津天満宮の御造営
現在多くの皆様方から尊いご浄財の奉賛を賜りながら、拝殿西隣の直会殿を改築御造営中ですが、お陰様をもちまして工事も順調に進み、明年1月25日竣功を予定いたしております。
岩津天満宮は江戸時代、信光明寺の所管としての歴史を歩んで参りました。当時の堂宇(どうう)は全く残っておりませんが、境内の狛犬、灯籠、石垣、神牛などに当時の俤(おもかげ)を見ることが出来ます。
明治になり神仏分離の令により信光明寺の管理から離れ、神社として現在に至っておりますが、明治10年代に山の麓からの火災により、当時の建物は全て烏有(うゆう)に帰してしまいました。その頃、岩津天満宮に篤い信仰を寄せていた服部長七が、地元住民に乞われ復興に取りかかったのです。火災に遭う前の社殿堂宇はどのような姿であったのか、今は知るよしもありませんが、罹災の後、近くの廃堂を拝殿代わりに移築したようです。
明治後期から大正初期にかけ岩津天満宮中興の祖である服部長七翁は私財を投じ、また寄付者を募って、ご本殿、拝殿、社務所、直会殿を造営し、今の岩津天満宮の基礎を築きました。大正8年に最後の仕事として拝殿を完成させ、長七翁はその年の7月18日、境内の一角において神上がったのです。
その後は嫡子服部廉平がその遺志を継ぎ、昭和4年に神楽殿を造営、参籠堂の増築等をなし、長七翁の想い描いた岩津天満宮の社殿造営をほぼ完成をさせることが出来ました。
昭和16年に長七の孫現服部貞弘名誉宮司が社掌(宮司)に就任、この頃から昭和の40年代まで旧暦1月25日の初天神祭は全盛期を迎え、三河一円を中心に、広く岩津天神信仰を伝播(でんぱ)させ行くことになりました。
昭和40年代になり車社会が到来してから様相は一変し、年間を通してのご参拝が増えて参りました。名誉宮司は昭和46年に手狭になった社務所を、熱田神宮宮庁(社務所)を下賜移築造営し、参拝者の増加に対応してまいりました。昭和55年には御本殿の造営、昭和62年から63年にかけ現在の社務所飛梅殿の造営、平成3年に境内長七庵の造営、平成八年に参道特殊合金製一の鳥居の造営と、次々と近代的な境内整備を進めて参りました。
平成10年に宮司が交代し、平成14年の菅公御神忌一千百年大祭の記念事業として手水舎の造営と和魂漢才碑の建立をいたしました。
そして此の度、老朽化した直会殿の改築造営を、併せ江戸時代築造と思われる正面西側の石垣を改修することとなり、石垣の改修は9月上旬に無事終えることが出来ました。
残すは新直会殿の完成と新しい玉垣の建立となりましたが、多くの先人たちが苦労して築き上げて参りました、岩津天満宮の森厳な神域を形作っております御社殿に恥じぬよう、ご崇敬皆さまの尊いご浄財の奉賛を賜りながら、立派に完成させて参りたいと念じております。
