寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成17年4月1日 通巻・第102号

岩津の歴史・伝承に登場した人たち その3  最終回

円福寺には、信光の子、親則(一四三七~六一)が興した長沢松平家の廟所があります。ここには慶長一八年(一六一三)に松平忠輝(家康の六男)が再建した四脚門があります。墓は、泰親、信光、親則、教然良頓(信光の兄弟で、妙心寺を開山)、泰親の室、信光の室の墓、そして松平正綱(一五七六~一六四八)、松平信綱(一五九六~一六六二)の墓があります。正綱は、江戸幕府初代の勘定奉行をつとめ、日光の杉並木を植え、滝山東照宮の造営にかかわっています。信綱は、老中をつとめ、島原の乱の鎮圧、由比正雪の慶安の変を処理するなどで有名です。「知恵伊豆」と呼ばれていました。

松平四代、親忠は一四七五年、大樹寺を創建します。
この頃松平氏の菩提寺は、岩津家が信光明寺、安城家が大樹寺、長沢家が妙心寺、岡崎家が大林寺だったようです。
親忠は文亀一年(一五〇一)八月一〇日に亡くなります。その初七日の日に松平一族の連判状が作られています。署名者中、岩津を名乗る、光則、常蓮、長勝、信守、親勝、算則の六人があります。信光の子を中心とする岩津松平一族で、岩津城の周囲をとりまくように配置された「岩津七城」といわれる砦群の城主たちのようです。
岩津城は一五〇六年、北條早雲に率いられた今川勢の猛攻にあいます。一五三三年、広瀬、寺部城主の軍に攻められます。一五七一年には武田勢に攻撃され落城したという記録もありますが、いつ廃城になったかは分かりません。市史では、その発達した構造から岩津城の遺構は一六世紀後半と考えられ、家康の関東移封(一五九〇)の時までを念頭において考察されるべきであろうと記しています。
松平氏の譜代家臣の筆頭は酒井氏で、その祖、酒井廣親は、松平初代親氏の庶子で、岩津町申堂に墓があります。岩津城主説や、岩津城執事などの説があります。
本多平八郎忠勝誕生地の碑が西蔵前町にあります。本多氏は足利尊氏に仕え、泰親の代から代々松平氏に仕え、本多忠勝(一五四八~一六一〇)は祖父の代から西蔵前町に住み、ここで生まれます。忠勝は幼少の折から生涯をかけて家康に仕えた股肱の臣であり、徳川四天王の一人として勇名を馳せた武将です。
岡崎市史に次のような記述があります。「----現市民の大部分は、戦争の専門家として家康と共に天正一八年(一五九〇)関東に移っていった三河武士の子孫ではないのである」と。

幕末期、嘉永七年(一八五四)刊の「萬世武鑑」で調べてみますと、大名二六八家の中、本国三河と記されている藩主は一三五家ありました。三河出身の大名が全国に散らばっているのです。
松平氏発展の拠点であった岩津から松平宗家が四代親忠として安城に移り、七代清康が一五四四年、岡崎城へ入り本拠とします。九代家康は徳川を名乗り、一五七〇年、本拠を浜松に移します。そして一五九〇年には、江戸に移封されます。
大久保彦左衛門は「三河物語」で「……松平郷をお出になって、岩津の城を奪い、居城となさった……」としか岩津城のことを書いていません。長い歴史の中の貴重な一齣であるのになぜか岩津城は、松平、徳川の歴史の中では影が薄くなっています。
岡崎市史では、岩津城をその遺構から、岡崎市を代表する山城といっています。さらにその歴史を検証し、城趾を整備して世間に示し、後世に伝えていきたいものです。
〈岡崎市名誉市民〉
岩津地区には次の三名の方が、その栄誉を讃え、功績を顕彰して「岡崎市名誉市民」の称号を贈られています。
大給 恒(おぎゅう ゆずる)(一八三九~一九一〇)奥殿藩一一代藩主、竜岡藩初代藩主、松平乗謨(のりかた)が明治二年、大給に改名、明治政府の賞勲局総裁、日本赤十字社の設立に貢献し、副社長となる。
服部長七(一八四〇~一九一九)「人造石」ほか多くの発明家。広島宇品港の築港工事、神野神田の建設などの土木技術者、事業家。岩津天満宮の改築、整備を行った、天満宮中興の祖、現宮司、服部憲明氏の曾祖父。
中根鎭夫氏、前岡崎市長、平成一五年顕彰。

歴史的な関心、時代物語的、大河ドラマ的興味を持って、岩津地域の歴史、伝承に登場した人物を取り上げてきました。世の流れ、時の流れに沿う人、逆らう人、流れを創っていく人さまざまで、興味は盡きません。天下を取った足利尊氏、徳川家康も登場します。細川元総理もちらっと現れました。天下取りを支えたのは三河の武士たち。そして表面に出てこない多くの人が、この地域を作っていたことを感じます。いつか調べてみたい思いです。

 

 

  • 平成17年1月1日 通巻・第101号

岩津の歴史・伝承に登場した人たち その2


足利氏と三河

室町幕府初代将軍、足利尊氏(1305~58)の墓が大門の八剱神社にあります。足利氏は、源氏の将軍家と深いつながりがあり、承久の乱(1221)の後、足利義氏(1189~1254)が三河国守護職、額田郡地頭職につき、一族一門が各地に城を構えた三河は、足利氏の分国でもありその拠点でした。
足利一族庶流の実国が仁木に住み仁木氏を、弟の義季が細川に住み細川氏を名乗ります。
村積山頂上に「毒石」と呼ばれる自然石が二個、石垣に囲まれています。触ると病にかかると言われていますが、神社の古文書によれば細川氏の祖、細川義季と弟の義宗の廟石とのことです。
細川町権水の蓮性院には細川頼之(1329~92)の墓があります。頼之は細川で生れ、足利尊氏に属して各地に転戦、幕府の管領(かんれい)(室町幕府最高の官職。斯波、細川、畠山の三氏が交替で就任し、三管領といわれる)をつとめています。この管領制は、幼少であった三代将軍、足利義満の補作役として執事に就任した頼之によって推進されたものです。また頼之は、文武の道に秀いで、詩歌の道にも通じた武将でした。細川護煕元総理が蓮性院を訪れ、墓参をされたそうです。
仁木氏は、仁木義長(?~1376)が三河、伊勢、伊賀などの守護になっています。
応仁1年(1467)室町幕府の将軍の継嗣問題に端を発した争いが、管領、細川勝元(東軍)と所司(侍所の長官)山名持豊(西軍)の勢力争いとからみあい、天下を二分する応仁の大乱が始まりました。三河国守護、讃岐守細川成之(1434~1511)は東軍の中心勢力となって戦いました、この戦乱は地方に拡大し、三河国内でも東軍、西軍に分れて戦い続けられました。応仁の乱は、11年続いて文明9年(1477)に終りますが、この時期、すでに岩津に進出していた、松平信光(1404~88)は、この戦いに東軍に属して共同戦線をはっていました。

また寛正六年(1465)、成之に動員され、額田郡国人一揆を鎮圧しています。
なお細川成之は、和歌、書画、猿楽などに造詣深く、東山文化期を代表する教養人として著名と「東山文化の研究」にあります。

 

松平氏岩津へ進出

松平二代泰親と共に信光は応永28年(1421)岩津に進出し、岩津城を築きます。
三河国は京から鎌倉に至る東海道の中間点に位置し、源頼朝の全国支配の中でみて、政治的、軍事的にかなり重要視されていた国でした。足利尊氏が幕府を草創した折、中心的戦力になったのは、鎌倉時代に三河に配置された一族家臣であり、額田郡に磐石の支配秩序ができあがっていたからといわれます。
岩津は、北野―岩津を経ての鎌倉街道の矢作川渡河点ということだけでなく河川交通、南北の河に沿った陸上交通の重要地点でした。信光はこの岩津を本拠として額田郡を収め、更に碧海郡の安城、そして岡崎の二城を攻めとり、松平氏の基礎を固め飛躍的に発展させたのです。
泰親は、若一神社を1427年に、信光は、信光明寺を1451年、妙心寺(現、円福寺)を1461年に創建しています。
信光は岩津城を長男、親長に譲り、三男、親忠(1431~1501)には安城で松平宗家を継がせ松平四代とします。岡崎城には五男、光重を入れます。
信光明寺には松平親氏、泰親、信光の三代の墓があります。1558年2月徳川家康(1542~1616)が参詣したと伝えられています。その年であれば、元康時代で、初陣の寺部、挙母、広瀬などの城攻めのときということになります。岩津城が武田軍に攻められ、信光明寺が焼かれた後、家康の命で再建されています。

 

 

  • 平成16年10月1日 通巻・第100号

岩津の歴史・伝承に登場した人たち その1


岩津の里の古代

8年間にわたり、30回、「岩津風土記」を書いてきましたが、「てんじんやま」100号にあたり、あらためて岩津地域の歴史と伝承を、特にそこに登場した人物を中心に、書いてみたいと思います。
この地域は一万数千年前のものといわれるナイフ型石器が発掘された仁木八幡宮遺跡。弥生時代から古墳時代にかけての古墳(岩津学区だけでも50基余)。於御所、生平遺跡など。矢作川、真福寺川、青木川流域に住居があり、丘陵に墓のある村が存在し、次第に小国家へ発展していったと思われます。
古墳文化は、7世紀末から8世紀をむかえる頃になると新しい葬制の仏教が入ってきて、次第に古墳が作られなくなります。
この頃、西三河で最も古い歴史を持つ「真福寺」が創建されています。寺伝によりますと、物部守屋の子真福(まさち)が推古天皇の代、聖徳太子に許され、大宝元年(701)父のために建立しました。
物部氏は古代の中央豪族で、守屋は大和朝廷の大連(おおむらじ)(大臣(おおおみ)と共に朝廷における最高の執政官)でしたが大臣の蘇我馬子と対立して敗れ、守屋の次男、真福は三河国仁木郷に流罪の身になったが極めて裕福で長命であった、そこで真福長者と呼ぶと、「真福寺元記」書かれています。真福寺は物部氏の氏寺的存在であり、後には足利氏とも深いかかわりも持つことになります。ほかに、村積神社、謁播神社、滝山寺、北野廃寺なども物部氏にかかわる伝承を持っています。
大宝二年(702)持統太上天皇の三河行幸が行われました。「続日本紀」に、10月8日参河(みかわ)に幸(みゆき)す、とあります。一ヶ月余の滞在であったようですが、その間の記録がありません。言い伝えでは、村積山を訪れ、花園山と名付け、しだれ桜を植樹されたと言われています。
持統太上天皇は、天智天皇の皇女で、天武天皇の皇后となり、天皇の死後即位、持統天皇となり11年在位の後、皇位を孫の文武天皇に譲り、太上天皇となられます。
礼に厚く節倹、人としての徳も、母としての情も備えた君で、仏教も深く信じ、歌人としてもすぐれていたと「日本書紀」に書かれています。

“春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山”(新古今集、百人一首)は持統天皇の和歌です。

 

源氏と三河

熱田大宮司職と額田郡の権益を伝承した、藤原範忠は、三河国で大きな力を持っていました。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)には源義朝のもとへ家の子郎等を送って援助しました。(範忠の姉妹の一人が義朝に嫁いでいました、源頼朝とは叔父、甥の間柄です)三河の武士団は、武門の棟梁(とうりょう)でであった源氏嫡流との結び付きが古くから濃く、保元・平治の乱にも、設楽兵藤武者(保元物語)、重原兵衛父子(平治物語)らが義朝に従っています。
 平治の乱で敗れた義朝が東国に赴く途中、乳兄弟でもある従者の鎌田正清らと、正清の舅(しゅうと)である長田荘司のいる知多郡野間に立寄ったとき、平家の威を恐れる荘司らによって、風呂場で謀殺されます。この鎌田正清の墓が真福寺町にあります。当時真福寺町の大善坊で住職をしていた兄、大無房の手によって引き取られ葬られたと伝えられています。
 平治の乱の後、義朝の子、後の鎌倉幕府初代将軍、源頼朝(1147~99)は13歳で伊豆へ流され、一歳の源義経(1159~89)は鞍馬山へ追われます。義経、15歳のとき源氏再興のため奥州へ向かう途次、矢作の里で、14歳の浄瑠璃姫との出会いと別れの物語が生れます。姫の父親は、伏見源中納言兼高で三川の国の国司。母親は、矢矧の長者といわれる海道一の遊君となっていて、長者屋敷の東門が大門で、家の子郎等の味噌汁の糟が味噌糟岩としています、この地域に伝わる、あさひ長者の味噌糟岩伝説と似た話となっています。

 

 

  • 平成16年7月1日 通巻・第99号

本多忠勝と幕末の岡崎藩主忠民

西蔵前町に石碑のある「本多平八郎忠勝誕生地」は岡崎市の指定文化財になっています。
徳川創業の功臣といわれる本多平八郎忠勝は父忠高の子として西蔵前で出生、祖父忠豊の代からこの地に住んでいました。忠豊は松平清康に仕え、天文14年の安城合戦で家康の父広忠の身代りで戦死、忠高も天文18年の安城合戦で戦死。忠勝は洞に移住します。
忠勝は12歳で元康(家康)に従っての初陣以来五十数度の戦いで一度も負傷したことがく、家康股肱の臣としての活躍ぶりは、敵から最も恐れられ、井伊直政、坂井忠次、榊原康政と共に徳川四天王の一人として、その名は天下に轟いていました。「三河武士のやかた家康館の前には甲冑を着用し長い”蜻蛉切”の槍を持った忠勝の銅像があります。国指定重要文化財の忠勝着用の胴丸具足は、家康館で保管されています。
江戸時代、岡崎城には代々譜代(関ヶ原戦以前から徳川氏に仕えた家臣)の大名が居城していますが、明和6年(1769)には、譜代でも屈指の名門、本多家本流の忠勝から十一代目の忠肅が岡崎に入府し、岡崎藩は後本多といわれている本多氏が藩主となります。

岡崎藩後本多五代藩主忠民は徳川家家門の讃岐高松藩からの養子で、天保六年(1835)から幕末まで、めざましい活躍をしました。高松藩は、徳川御三家水戸藩の分家です。水戸藩初代の徳川頼房(家康の十一男)の長男が高松松平家の初代で、次男光圀(黄門さま)が水戸徳川家2代目藩主です。岡崎美術博物館で特別展が開かれた平賀源内は高松藩士でした。菅原道真公は、42歳のとき讃岐守として4年間赴任されたことがあります。
忠民は、奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を二度など、幕府の要職にあって幕末の難局に奔走しています。国元にあっては、加茂一揆を自ら指揮をとって鎮撫し、幕府から賞詞を受けています。領内をよく巡視して領民の生活に目を配り、災害による不作対策、藩の政治、経済の刷新、財政の改革を行っています。この時代、たびたび倹約についての触れが出されていす。「衣服は麻木綿を用いる。蛇目傘、日傘の禁止。好色絵本の刊行禁止。遊芸、歌舞伎、浄瑠璃などの人集め禁止。櫛、笄などにべっこうなど用いないこと。搏奕の禁止(東蔵前や磯部の五人組が搏奕をしないという申し合わせを書いています)」など見ると当時の生活がうかがえます。
領内の大庄屋、庄屋(200ヵ村)の倹約申し合わせ書、31ヵ條の中の「心得ちがいの者に対して、村中揃って無理難題を申し付ける例があるが、詫びを入れたらこれを許し、村中むつまじく生活すること」「村役人は不公平な扱いが無いよう正直に精励し岡崎へ出ることがあっても用事がすみ次第早々帰村すること」などの條文、興味をひかれます。
忠民は明治2年、藩籍を奉還して隠居、養子忠直に、藩校允文館、允武館の設立を命じ、明治16年、東京で亡くなりました。