寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成16年4月1日 通巻・第98号

岩津を訪ねた人たち

「二本の梅の木は健在だった。名大医学部大幸キャンパス。戦争中の日中関係のエピソードを伝える紅梅だ」中日新聞「中日春秋」(2002、9、28)欄の書き出しです。

日中戦争中の昭和15年3月、蒋介石の最大のライバルだった中国国民党の重鎮、汪兆銘(汪精衛)は国民政府(南京)を樹立し主席となって日本に協力します。昭和19年3月、汪主席が病気療養のために極秘来日、名古屋帝大病院に入院しました。当時は太平洋戦争さ中で、中国大陸には、連合国の一員となった蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産軍、在華アメリカ軍、そして日本軍があってせめぎ合う戦乱のときで、日本にとって最重要人物であるその汪兆銘が療養中、密かに岩津に現われました。岩津の山で松茸狩を楽しんだのです。そのときの町長、加藤錫太郎さんが案内をされたそうです。「中日春秋」では、梅の花を愛した汪への厚遇を謝して家族が病院へ紅梅を贈ったと記しています。汪さんは岩津の梅林を見てくれたでしょうか。岩津に遊んで、直き11月10日に亡くなられました。

昭和7年、鳩山一郎文部大臣が岩津小学校に来校、訓示をされています。鳩山由紀夫、邦夫議員の祖父に当る方ですが、戦後いち速く(昭和20年11月)自民党を結党して総裁。昭和29年、内閣総理大臣。昭和31年、自民党初代総裁などをされ、一時期全国的な”鳩山ブーム”をまきおこした保守政界のリーダーでした。
岩津小学校には「至誠一貫」鳩山一郎と署名された扁額が掛けてありました。

国民文学とも言われる数々の歴史小説の作家、司馬遼太郎の歴史紀行文シリーズに”街道をゆく”があります。その絶筆となった第四十三巻「濃尾参州記」(1996年刊)の挿絵に、東蔵前町の一角が載っています。スケッチした安野光雅氏は、画家、絵本作家として海外でも著名な方です。東蔵前天満宮の鳥居の前から足助街道を北に望み旧街道の分岐点あたりが描かれています。「濃尾参州記」の取材は大樹寺から高月院に向っていますから、その折りのことと思います。

司馬遼さんは、本文の中で「徳阿弥から三代目信光の代にいたって、この山中の小勢力は、ようやく矢作川右岸の野にでた……信光は安祥城を三男親忠の居城とした」と書き、左岸の岩津攻めをとばしています。大久保彦左衛門の「三河物語」では、松平二代泰親が「松平の郷をおでになって、岩津の城を奪い居城となさった。その後……信光様に譲り、ご隠居なさった」と簡単に記しています。

司馬遼さんは松平氏の岩津進出に関心が無かったかもしれませんが、史蹟として、また観光施設としてでも岩津城趾が整備され、世の耳目を集めていれば、立寄られたかもしれません。折角の家康の祖、松平氏の史蹟岩津城趾を世に出したいものです。

 

 

  • 平成16年1月1日 通巻・第97号

上水道の水がきた!

昭和33年8月12日の発展会の臨時総会では、上水道敷設、電話増設、道路開発、住宅建設などの促進についての議案が討議されました。今風に言えば、インフラ(生産や生活の基盤となる社会資本)整備に力を入れていました。上水道の件では既に6月に水道局を訪ねて調査し、8月22日に水道委員会を立上げ、電話増設の件では昭和29年以来、加入申込が一切承認されていないという状況で8月から活動の準備に入りました。以来、水道、電話の二つの緊急課題に向って討議、調整、陳情の活動が日夜続けられました。
水道委員会は、服部貞弘岩津天満宮宮司さんを委員長に迎え、関係各町総代さんの協力を得て、実質活動を発展会を中心にして上水道給水実現まで続けることになります。

昭和34年8月20日付で提出した請願書では、東蔵前南、北、西蔵前、岩津の四ヶ町の密集する人家、商店。支所、学校などの官公署。温泉などの地域環境の説明と、長い間の上水道敷設の渇望の状況を述べ、昭和30年の合併を機に是非実現をと願い「上水道敷設の恩恵にあずかる当地区民個々の福祉増進はもとよりですが、産業、経済、文化の向上、衛生、消火或いは観光事業の万全を期する上からも広く当地区の開発、発展上如何に大きな貢献を至すかは申上げるまでもないところです」と縷々述べ、更に「請願に当りましては、特に確実なる水道加入希望者を統合し、署名捺印すると共に水道加入準備預金を励行し、茲に市民としての誠意と真実を披瀝して、当地
区に上水道敷設を一日も速やかに実現していただくよう懇願に及んだ次第で御座います」と記しています。

この請願書の紹介地元議員は加藤錫太郎さん。署名者は「四ヶ町地区上水道敷設促進委員会」として委員長=服部貞弘。副委員長=南蔵前町総代ー加茂一、北蔵前町総代ー村瀬収、西蔵前町総代ー犬塚嘉一、岩津町総代、岩津小学校PTA会長ー近藤仙市、岩津地区商工会長ー長田徳太郎、岩津中部発展会長ー柴田金市。委員=岩津中学校PTA会長ー中村覚、岩津地区消防団長ー鈴木健治、岩津中部発展会副会長ー礒谷庫一、岩津中部発展会会計ー兵藤進一の各氏と加入希望者71名が載っています。給水が実現したのは昭和36年10月で322戸の加入でした。
電話増設促進運動では岩津郵便局長の協力のもと、名古屋の郵政局、電々公社、それぞれの岡崎支社などへの度々の陳情を重ね、昭和35年八月、70件の開通ができました。

いま思いますと、4年がかりの水道、3年がかりの電話、内部の結束と各方面への働きかけ、そしてひたすら懇願という体の陳情をしなければ実現しない時代でした。隔世の感がします。それにしても時代が要求したとはいえ、発展会はよく頑張りました。同じ時期街路灯も設置しています、桜まつりも紅葉まつりも行っていました。一万円札の発行が33年、高度成長の時代に向かっていました。

 

 

  • 平成15年10月1日 通巻・第96号

忘れられたまぼろしの桜堤と上郷町との合併劇

”桜千本矢作の堤 散らす夜風が憎らしい”

いま、その伝承のために「ふるさと会」の皆さんが稽古を続けている「岩津さくら小唄」(昭和30年につくられた「岩津温泉小唄」の曲名を改称)の歌詞です。どこに、そんな桜があったの?、とよく聞かれます。

ここに「観光事業共催申請書」があります。昭和32年、岩津中部発展会長から岡崎市長に提出したものの控えです。岡崎観光桜まつりの一環として、岩津矢作川堤、岩津温泉街周辺の桜まつりを行いたいから、応分の援助をして下さいという申請書です。矢作川堤(正確には、現在の岩津市民センターの東に流れる於御所川堤です)と岩津温泉の数百本の桜を電球とボンボリで夜間照明し、商店の店頭装飾をするという内容です。桜千本とか、数百本とかはオーバーですが、なかなか見事な桜並木で、売店もあって年輩の方には夜桜見物を楽しんだ記憶のある方も多いと思います。いまでは忘れられたまぼろしの桜堤です。

「上郷町との合併について」と題された文書がここにあります。「上郷町と岡崎市との歴史的なつながり、これから派生する社会生活、文化及び経済の関係は、上郷町と岡崎市を結ぶ強いきずなとなっている。この二つの地域社会における住民の生活水準、文化水準、所得水準等の向上を図り、住民に、より快適な社会生活と、より活発な経済活動を与えるため、是非ともこの合併は実現させなければならない」と文章が結ばれています。

発展会の記録を見ますと、昭和36年5月10日、岩津支所で役員会を開き、合併運動を応援することを決めています。そして会員宛に「お願い」の一枚のプリントを配布しています。そこには「当岩津地区は総代会を始めとして、各種団体、有力者を動員して合併についての岡崎市の真意を上郷町民に理解して貰うべく日夜活動を続けております。隣町として親しみ深い上郷町との合併は、岡崎市民として、また特に私共発展会員にとっては将来の繁栄のため最も望む所であり(中略)昨日発展会として対策本部に協力を申入れました(中略)」とその趣旨と状況が記され、会員に上郷町の親籍、知人などに理解と協力を求める働き掛けを要請しています。因みに、当時の上郷町は同年町制が施行されたところで、畝部、寿恵野、高嶺地区合計で、2237戸、11262名の人口でした。
服部名誉宮司さんも当時岡崎市教育委員として、自転車を駆って運動されたそうです。
しかしこの運動は実らず、上郷町は昭和39年、豊田市に合併します。この合併運動は市史などに記されていません、まぼろしの合併劇となってしまいました。