寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成15年7月1日 通巻・第95号

土呂松平甚助家と寺子屋

円福寺の墓地の一角に、松平親宅を祖とする土呂松平氏の墓碑が郡列しています。その中に「手習子中」と側面に刻まれた墓があります。一族の松平甚助親員の墓です。
松平親宅は、岩津城を築き、妙心寺(円福寺)を創建した松平信光の子親則を祖とする長沢松平家の庶流親常の子です。親宅は家康に仕えて各地を転戦の後、家康の長子信康の家来になりますが、信康が織田信長の要求により自刀させられると出家して念誓と称しました。天正7年再び家康に召し出され、同12年、製茶を命ぜられて土呂(福岡町)に屋敷を拝領し、また酒造の独占権も得て菅生にも屋敷を与えられます。慶長五年には三河目代をつとめ、同9年(1604)71歳で亡くなりました。その子親重は関ヶ原合戦に参陣し、三河代官もつとめましたが嫡子が病弱のため官を辞し「酒役、蔵役等諸役免許」の特権を持つ「処士」(民間人)となります。子孫の当主は代々甚助の名を世襲しています。
本家松本甚助家7代が松平甚助親員です。墓に「手習子中」とあるので、寺子屋を開いていたと思われます。
円福寺墓地には、『てんじんやま』75号で記しましたように、岩津の中村安兵衛夫妻を弔う「筆子中」の墓もあります。

愛知県教育史の「寺子屋一覧」には岡崎市域の城下に30、村落に176の寺子屋が載っています。
寺子屋は、江戸時代中期の享保年間(1716~35)から明治初期にかけて商工業の進展につれて庶民の間に読み、書き、そろばんの必要性が生じ、庶民の教育機関として広く普及したといわれていますが、経済的理由からというよりは、おもに文盲を救済しようという純粋な教育愛に基づくものが多かったようです。岡崎市域の寺子屋の所在地を見ても全市域に亘っていて村落部に多いことからもこのことがうかがえます。開設初期といわれる享保年間には古部村で開業されていますし、岡崎市域の寺子屋数も全国平均を上回っているようです。教育熱心な地域と言えます。因みに寺子屋に就学する児童は6~7歳から3~5年で修了するものが多かったようです。
岡崎美術博物館で開催された「徳川将軍家展」の開会式に来岡された徳川宗家18代徳川恒孝氏が講演の中で「江戸時代末期の識字率は、男子70~80パーセントで、当時のロンドンでは20パーセント代だった」と話されていました。寺子屋は全国で6~7万校存在したであろうともいわれています。寺子屋の庶民教育に果した役割は大きなものだったと思われます。

 

 

  • 平成15年4月1日 通巻・第94号

岩津の「御鍬祭り」

岩津の若一神社の境内社に御鍬社があります。御鍬神は流行神的要素を持ち、五穀豊穣を願い、豊作を感謝する御鍬祭りは三河地方で明和四年(一七六七)と慶応三年(一八六七)民衆の宗教運動として大流行しました。
明和四年二月二十日、御鍬神が伊勢を出発、二月二十九日岩津村若一王子社に入輿、二月三十日七ヶ村の惣氏子が御供し、八ツ木村→岩津天神→磯部村荒神社→西蔵前村八幡宮社→東蔵前村天神社(御泊り)、三月一日西阿知和村若宮社→東阿知和村春日大明神社→青木堤→妙心寺本堂へと村継ぎ巡回し、一日暮方若一王子社内へ鎮座します。さらに、御鍬神勧請の噂を聞いた古部村から招請があり三月十日古部村、十一日切越村、桜井寺村で祭礼が勤められ十二日若一王子社に帰着しました。
この折、七ヶ村と妙心寺領、信光明寺領の名主、年寄相談の上岩津若一王子社内に鎮座されることになり、三月中旬に摂社御鍬社が造営され三月二十一日儀式が行われました。
“豊年ジャ豊年ジャ三百年の豊年ジャ、一束三杷で五斗八升、搗(つ)いても創っても五斗八升、夫家家持ち上銭も、金も豊太豊太、宵の調子で餅上げ、子供衆豊太豊太”と、このとき歌われた囃歌は、三河、尾張、遠江一帯に流行していたといわれます。

この年のお鍬祭りは岡崎市域十七ヶ所で行われていますが、どんなつながりからか、十数キロも離れた岡崎市東端の切越村などから御鍬神の招請があったのです。
切越は人の往来も少ない山間僻地で、謎を秘めた八面石塔といわれる八基の石塔が山の斜面に立っています。現在戸数六戸の町です。
古部は切越に隣接し、孝婦とらの碑や像のある現在二十八戸の町です。
桜井寺村は、現在は額田町大字桜井寺(戸数百三戸)で、弘法大師開基と伝えられ三河五山として知られている桜井寺のある所です。
慶応二年(一八六六)二月四日には氏子九ヶ村によって御鍬社百年祭が盛大に行われています。(この祭りの詳細な記録は岩津町後藤恒一さん所蔵で、岡崎市史に注目すべき貴重な史料として近世、民俗、史料近世下の各巻に載っています)
この慶応の御鍬社百年祭は西三河、東三河のみならず奥三河に至る広範な地域で流行し、各所の記録から農民の一種の狂乱じみた様子さえ読みとれると市史では述べています。
慶応三年、名古屋で(三河吉田城下とも)始まった民衆の世直し運動「ええじゃないか」の町や村を歩き回る大衆乱舞と「御鍬祭り」とのつながりを指摘する説もあります。

 

 

  • 平成15年1月1日 通巻・第93号

味噌粕岩遺跡とその伝説

井ノ口町(現在の上里一、二丁目あたり)にあった味噌粕岩遺跡は弥生時代の土器、岩庖丁、馬骨、イネ科植物の遺体などが発掘され、弥生時代この地での稲作開始期の様相を示す貴重な遺跡とされています。現在は埋没されて二四八号線西側上里二丁目地内のその位置に稲荷堂が建てられています。
味噌粕岩の名の由来となる伝説があります。
「昔、あさひ長者と呼ばれる人がいました。岩津村大門に大きな門があり、蔵前に蔵があり、井ノ口には井戸を持っているほどの大金持ちでした。ある日外出先で子どもたちが白蛇をつかまえていじめているのを見た長者は、蛇をあわれに思い助けてやりました。翌日の夜、長者の枕もとにその白蛇が現われ、救っていただいたお礼にといって小犬を置いていきました。その後この犬に米一合与えるごとに純金一合を排出し、二合与えると二合排出しました。これによって長者はみるみる大金持になって使用人も家族も増えてきたため、朝夕の味噌汁の粕がたまり、積もり積もって岩になったのが味噌粕岩で、長者は長く生き四百歳になっても死ねず、とうとう真福寺の池に身を投げました」という話です。

真福長者の伝説も同じような、蛇と犬と砂金の出てくる話です。岩津村誌、岩津町誌、新篇岩津町誌にそれぞれ載っていますが、村誌では「味噌滓岩」(真福長者也)とした上で、文中では「あさひ長者なるもの…」としています。また昔の終わりに「荒唐不稽の僻説なれど伝説として録せり」と書いています。
伝説は、時がたち、所によって様々に変化し、また創られてもいくようです。

味噌粕岩は矢作宿の兼高長者の屋敷にあったという話もあります。
「兼高長者の所領は西熱田に接し、東国府の直轄領に接していた。その屋敷は矢作川の東の岩津村大門に東門があって、それから三里もあろうという安城の里村までが屋敷であった。その家の子郎党たちの毎日の味噌汁の粕をすててたまったのが大門(上里)の味噌粕岩である」という話です。この兼高長者夫妻の墓が豊田市畝部東町川端の阿弥陀院にあります。
兼高長者夫妻に子がなくて鳳来寺の薬師如来に祈願して、その賜子として生まれたのが浄瑠璃姫です。矢作宿を舞台とした義経と姫の悲恋物語「十二段草子-浄瑠璃姫物語」は語り物「浄瑠璃」として室町時代から全国に広まっていました。
貴重な遺跡としての味噌粕岩と、その伝説としての物語を後後まで語り伝えていきたいものです。