寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成14年10月1日 通巻・第92号

語り継ぐ歴史

岩津地区には、由緒ある寺院、文化財が多くあります。 国宝(国指定重要文化財)が大樹寺に3件。真福寺に彫刻の慈恵大師坐像一躯。信光明寺には建造物で、観音堂一棟の5件があり、県指定文化財は、大樹寺に7件、真福寺に工芸の塑像仏頭一個と史跡として岩津第一号古墳、及び考古資料として岩津第一号古墳出土品(約百点)の10件あります。

徳川家康が初めて朱印状を発給した慶長7年(1502)のは大樹寺の618石でした。その年に与えた七寺院の中には、竜渓院(20石)西林院(7石)信光明寺(120石)が入っており、翌年には妙心寺(現円福寺、101石)と真福寺(254石)が拝領しております。
信光明寺は、松平信光が宝徳三年(1451)に建立し、法堂(観音堂)は文明10年(1478)に建てられています。浄土宗寺院の堂では全国最古のものです。
信光明寺は「当山は境地広大にして岩津八景=城山晴嵐、東嶺暮雪、生平落雁、金比羅山秋月、壇ノ上夜雨、矢作川帰帆、西寺晩鐘、天神山夕照=の内その六を含蓄せり」と縁起にあるように広い寺領であったようです。
真福寺の寺領も広大で、東西の谷に金蔵院、大善院、柳池院、楞厳院、座千院、浄泉院の末寺六院がありました。現在は金蔵院だけが残っています。

明治初期に廃寺となって取壊された大善院の裏山の斜面に三基の墓があります。
平治の乱(1159)に敗れた源義朝が、家人であり乳母子であもある鎌田政家(政清改め)為成兄弟と共に東国へ逃れる途中、政家の妻の実家である。尾張国野間郡内海の長田忠致を頼って寄ったところ暗殺されてしまいます。鎌田兄弟も討死し、妻も自害します。当時、大善院の住職であった政家の兄によって引き取られ葬られた墓がその三基の墓です。

義朝の子頼朝は伊豆へ流され、牛若丸(義経)は鞍馬山へ入れられます。成長した義経が、ひそかに奥州平泉へ向う途中、矢作の里で出会った浄瑠璃姫との悲恋物語の伝承から浄瑠璃姫物語「十二段草子」が創られ、浄瑠璃がこの種の語り物の名となっています。
岡崎市では公募による音楽劇「浄瑠璃姫物語」を来年3月講演します。台本の中で、鎌田三郎正親の名を義経に語らせています。
尚、浄瑠璃姫は薬師如来の申し子として名付けられましたが真福寺のご本尊も薬師瑠璃光如来です。
世に知られた歴史物語の登場人物のこの地との関わりを知る度に興趣が湧いて膝を乗り出します。貴重な文化財や史跡の存在を知る毎に襟を正し、先人の足跡を辿っては尊敬の念をもつことしばしばです。豊かな自然を含めて、知的、情的好奇心の尽きない岩津の古今を語り継いでいきたいものです。

 

 

  • 平成14年7月1日 通巻・第91号

大正の岩津

日本で初めての国営バス路線として岩津の街を走っていた「JRバス」が今年の3月末、路線廃止で見られなくなりました。
大正時代の交通機関を調べてみますと、明治38年頃から大正9年(1920)に愛電バスが岡崎、足助間の定期バスの営業を開始するまで乗合馬車がラッパを吹きながら走っていました。バスの運賃は殿橋から足助まで2円でした。大正3年から尾三自動車も岡崎、足助線一日7往復の営業をしておりました。人力車も足助街道を往来しており、運賃は5町(545メートル)まで12銭でした。
矢作川では川舟が上り下りしていました。大正13年、永久橋の天神橋ができるまでは渡し舟が、この近くに四ヶ所ありました。
電車は大正13年に挙母線が開通し昭和48年の廃止で、あの電車、岩津駅、線路や踏切が消えたときの寂しさが思い出されます。
大正5年、岩津村役場が新築されました。二階建の役場は、その立派さで県下の評判を呼び、多くの見学者が訪れたそうです。この年、岡崎町が岡崎市になりましたが当時の市役所の写真と比べてみると、贔屓目でなくても岩津の方が立派です。(工費8713円)
この5年に「芭蕉座」が廃館になり、6年には、「岩津城趾碑」が建立されています。

大正13年に構築された天神橋は岩津村側の東半分が鉄柱の組合わせによる欄干があり、西側半分の上郷ムラ側は財政上の理由で欄干なしという風変わりな橋でした。(工事費15万円)、小学校教員初任給40~55円。国会議員年額3000円。総理大臣月額1000円。映画館30銭の時代です。
大正15年、上郷、岩津の有志により資本金2万円で「青果市場」が現岩津町川畔に設立されました。後に愛知県中央青果市場岩津支場となり、取扱量が増えて狭くなったため昭和35年、天神橋の西に移転しました。
同じ15年には「愛知県養蚕試験場岩津支場」が創設され、昭和38年に廃場となりました。跡地は岡崎北部給食センターと岩津市民センターになっています。
この頃の世相を表わす事件もありました。

大正11年、偽造白銅貨、1円紙幣岩津郵便局で発見。大正7年、岡崎市内で米騒動、暴徒米穀商を襲う。大正5年、岡崎小学校でスウェーデン式体操を取入れる、女の子のパンツ姿にモモが見えるのは「イカン・アカン」とその筋からお叱りをうける。
明治はすでに大正も遠くになりにけりです。