
寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏
- 平成14年5月1日 通巻・第90号
千百年前の三河国・岩津
この地域は、参河国額田郡新木(新城)郷=岩津、八ツ木、真福寺。鴨田郷=東西蔵前、東西阿知和。に属していました。
岩津町から東西蔵前にかけての矢作河左岸に、古代から平安時代の遺構や遺物が発見された、於御所、生平、前田の遺跡があります。その背後の丘陵には岩津、天神山、中ノ坂古墳群など五十基ほどの古墳があります。これらの遺跡は背後の古墳の造営にかかわり、追葬をしていた人びとの集落で、ムラが営まれていたと思われます。その頃は、国ー郡ー郷ー里が地方行政制度として機能していました。一里に五十戸が原則で、一戸平均十八人から二十人が暮らしていたとのことですから、一つの里に千人くらい住んでいたようです。額田郡でも新城郷、鴨田郷は人口密集地域と推定されています。
当時すでに額田郡の最有力の氏族物部氏と深い関わりを持つ真福寺も謁播神社もありました。奈良、平安時代の岩津地区は、青木川流域を拠点として賑わっていたようです。生平遺跡から、国衙や郡役所等公的機関のみ所持している硯が出土したことから西三河の国衙もこの周辺にあったのではないかといわれています。岩津から阿知和にかけての地域は政治上も重要な地域となっていたともうかがわれます。
若し郡役所があったとすれば、その規模は 方二町とも三町ともいわれ、建物が数棟、倉や館(官舎)があり、役人も百人近くいたということです。
農民の生活は稲作のほか養蚕があったと思われます。三河国が養蚕の先進地であることは、延暦十五年(七九六)「三河国他五カ国より婦女各二名を陸奥国に遣わし養蚕を教習させる」という記録でわかります。三河国から調(税)として収める絹は、三河白絹、犬頭糸といわれ、都で珍重されていました。
時代を遡り、地域を広げて記録を見ますと、
七〇一年、三河国、蝗(いなご)や台風の害を受ける。
七一五年、三河国、大地震あり。
七六七年、三河国より慶雲の報告あり、 慶雲が瑞祥にかない、神護景雲と改元。
七六八年、三河国より白鳥を献上する。
七九九年、天竺人、綿種を持ち三河に漂着。
八一〇年、大嘗祭の辰の日節会で悠紀国三河の土風歌舞を奉上する。
八五八年、三河国で連理の木を得ると報告。
九〇二年、貴族等の三河への狩猟に伴う人馬の駆り立ての禁止の太政官符がでる。
なかなか興味深い記録が残っています。
- 平成14年1月1日 通巻・第89号
「うた」は語る岩津のいま・むかし[十一]
岩津小唄と岩津音頭には、真福寺と大樹寺が詠われています。
”秋のたけ狩りゃ八ツ木と岩津、 連れて行かんせ真福寺まで お仁王様でも二人づれ”
”冬の古城跡にこがらし吹けば、 ゆめは昔の大樹寺でらの 鐘の音色もなつかしや”
”風が吹きます、みどりの松に、 しのぶ山門大樹寺”
”お願かけます、山坂越えて、 薬師まいりの旅の笠”
真福寺の仁王門、仁王像(市指定文化財)は永正12年(1515)ころ造られたものです。寺院の伽藍を守護する金剛像ー仁王さんはどこも二人づれです。真福寺の仁王さんは、右の阿形(口を開いている)が325.4cm。左の吽形(口を閉じている)が327cmの大きな像です。
真福寺は、推古天皇(592~628)の頃、物部真福が父守屋のために建立したといわれ、お薬師さんと親しまれている水体薬師如来を本尊とする古刹です。
大樹寺は、安城城主、松平四代親忠が文明7年(1475)創建した浄土宗の寺院で、松平八代の墓、徳川歴代将軍の位牌のある松平、徳川家の菩提寺です。
”みどりの松に、しのぶ山門”と詠われているように、古い写真を見ますと松の木も多く、中でも、「厭離穢土、欣求浄土」の旗印を掛けて敵を退散させたという、その「家康公旗掛松」の大樹が写真に残っています。いまその三代目が大樹寺小学校にあります。
岡崎美術博物館で開催された「再発見、岡崎の文化財展」(9/29~10/28)、「冷泉為恭展ー幕末のやまと絵夢花火」(11/3~12/9)では両寺院の宝物が公開されました。
真福寺からの、国指定重要文化財「慈恵大師坐像」《文永11年(1274)作》。県指定文化財、塑造「仏頭」(七世紀後半の作)と大樹寺からの県指定文化財「大樹寺文書」などを間近に興味深く観ることができました。更に、国指定重要文化財、「冷泉為恭障壁画」を鑑賞し、やまと絵の魅力を堪能しました。
それらの中で、大樹寺文書の「松平一族連判状」は岩津の住民として関心の的でした。
松平五代長親が父親忠(信光の三男、松平四代)の初七日の文亀元年(1501)8月16日、大樹寺で一族を集め、結束を誓約する為に作成した連判状です。連署者は16名で、その中に「岩津七城」の城主と伝えられている岩津城主親長の一族=光則、算則、長勝、信守、親勝、常連の6名が岩津姓を名乗って署名しています。親長も岩津太郎を名乗っていました、岩津氏のルーツです。この岩津松平一族は永正3年(0506)今川氏との戦いで大方は討死したであろうといわれています。仁王さんも見られなかった五百年も前のことです。
- 平成13年10月1日 通巻・第88号
「うた」は語る岩津のいま、むかし[十]
”秋のたけ狩りゃ八ツ木と岩津 連れて行かんせ真福寺まで お仁王様でも二人づれ”
「岩津小唄」四番の歌詞です。
昭和三十年(1955)ごろを頂点とする大正、昭和は「マツタケ」大発生の時代といわれています。岩津小唄に歌われているように八ツ木と岩津の山では、マツタケ狩りが盛んに行われていました。
八ツ木山は、大正十三年(1924)開通の三河電鉄(岡崎ー門立)を通して全国に紹介され多くの客が訪れていました。当時、北海道へ旅行した人たちが「八ツ木の松たけ」と大書された宣伝ポスターを見て驚いたという話が伝わつています。山には売店も置かれ、時には芸者を呼んでの野外宴会もあり、愛知県知事が視察にこられたときには、駅から山まで入山客が列をなす賑わいだったと言われています。
岩津も、いまの梅林の頂で客の接待が行われていました。岩津では山を区分したマツタケ山の採取権の入札を行い、落札価格の半分を神社の祭礼費とし、半分を山主に配分していたようです。記録には、四十数名の山主の名が見られます。
縄で囲まれたマツタケ山をトメ山と言つていました。どこの部落にもマツタケ採りの名人が居たようです。マツタケは毎年同じ場所に生えるので、そこをシロといいます。名人はシロをたくさん知っていて、昔からその位置を他人には教えない習慣だそうで、江戸時代初期の物語にそんな話が載つています。
トメ山とされていない所や、マツタケ狩が終つた十一月になってからでも、マツタケをたくさん採ったと、かつての名人が話してくれました。勿論ひとりで行くとのことでした。
マツタケ盗人の話や、豊臣秀吉が稲荷山で植えられたマツタケ狩を楽しんだという話があるように、客に、植えたマツタケを採らせた時の話など、エピソードが多くありそうですが、もう話して下さる人も少なくなりました。
八ツ木も岩津も自慢のマツタケのようでしたが、岩津の記録が昭和三十三年で終っているように、昭和三十四年の伊勢湾台風以後はマツタケが出なくなりました。台風で赤松の根が洗われたためとも、プロパンガスの普及で焚き付けに使われたゴオ(松の落葉)を採らないから、赤松林に落葉が厚く積つて雑菌が増えたためとも言われています。
マツタケ狩も昔話になってしまいました。
