寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成13年7月1日 通巻・第87号

「うた」は語る岩津のいま、むかし[九]

”花が咲きます 岩津の街に   のぼる村積 三河富士”
”春の眺めは 村積山よ  風がくすぐりゃ につこり笑うて   やさし女神の片えくぼ”

と「岩津音頭」一番と「岩津小唄」二番に村積山が詠われています。
村積山は、この地区で多くの人に親しまれ眺められている山で、矢作川西岸の平野部から望むと山並みに聳えるその姿は三河富士と呼ぶにふさわしい、山容の美しい山です。
村積山(海抜二六二メートル)は、大宝年間(701~703年)持統天皇が三河へ行幸の折、花の咲きみだれる美しい景色から「花園山」と名付けられたと言われ、麓の市指定天然記念物の「しだれざくら」は、その折のお手植えのものと伝えられています。
山頂にある村積神社は、推古天皇(592~628年)の時代、大和朝廷の最有力者「物部守屋」の次男「真福」が三河の仁木郷に住み、真福寺を建立し、その守護神として村積山に本殿を建てた神社です。祭神は大山祇命、木花咲耶姫命、大巳貴命の三神で、鎌倉時代は細川氏の守護神、近世には奥殿藩主大給松平家の祈願所となつていました。現在の村積神社宮司は岩津町の柴田峰子さんで、柴田家は細川氏の末裔です。
神話、伝説を含む我が国最古の歴史書「古事記」に『この国の国土を統治するため、高天原から高千穂峰に降臨した「ニニギノミコト」にたいして「大山祇命」が「岩長姫」と「木花咲耶姫」の二人の娘を奉つたところ、ニニギノミコトは、美人である妹の木花咲耶姫のほうを選び、不美人だつた姉の岩長姫」を父親のもとに送り返した』という話が載つています。
岩津小唄に”風がくすぐりゃにっこり笑うて、やさし女神の片えくぼ”と詠われているのは、美しい「木花咲耶姫」が祀られているからでしょう。それで村積山は「美人山」とも言われています。伊那森太郎の「郷土民謡風土記」に”女美人は花園山の見ゆる所じゃ出来やせん”という古謡が載つています。美人山麓の女は、容貌の美を此の山に奪われたのでこの里に美人は一人もいないなどと古老に聞いたこともありますが、いやあもう、この地には花と競う美人がいっぱいです。
村積山に憑かれた人がいます。東蔵前町の市川敏雄さんは、古稀を迎えられましたが、平成5年2月12日から村積山へ往復約3時間をかけて早朝よりの徒歩登頂を続け、現在(5月29日)までの登頂記録は2091回になるそうです。市川さんの新年の句です。 ”日ののぼる三河富士なり初明り”

 

 

  • 平成13年4月1日 通巻・第86号

「岩津」うつりかわり

岡崎・足助線、井田町の交差点から北へ百メートル程の東側の民家の軒先に「岡崎市井田町=額田郡岩津村大字鴨田・境界」と刻まれた角柱石が置かれています。岩津村は明治三十九年(1906)に、奥殿村、細川村、大樹寺村と合併していますので、おそらくその頃のものと思われます。
その合併前の岩津村は、明治二十二年(1889)東蔵前村、西蔵前村、東阿知和村、西阿知和村、八ツ木村、真福寺村、駒立村、恵田村、丹坂村の十ヶ村が合併した村でした。明治二十四年(1891)の岩津村の戸数は493戸、人口は2,151人でした。
岩津の地名が使われていたのは、いつ頃からでしょうか。大正六年(1917)発行の岩津村誌には、「岩津=青木郷にして、乙女庄に属す、昔は巖津の地名を用いたり」と記述されています。平安時代、明大寺から岩津あたりまでの荘園は乙見荘と呼ばれています。優しい乙女庄の名は誤りかもしれません。日本歴史地名大系には「岩津=巖津、岩戸とも書いた、室町期から見える地名」(若一神社所蔵史料、岡崎市史六)と記してあります。市史の「古代から中世末期までにあらわれた村名」には、やはり岩津は応永三十三年(1426)若一神社史料とあります。応永二十八年、岩津に進出し岩津城を築いた松平泰親の若一神社建立の棟札によるものです。
大久保彦左衛門の「三河物語」に「二代泰親、岩津、岡崎の城をとる」と書かれています。
明治四十三年(1910)には岩津村を、南、中、北三村にすべきであるという三分村運動が起こりましたが、なりませんでした。
大正五年(1916)岩津村は二階建の役場を新築しました。「岩津村道路元標」の石柱が岩津市民ホームの前にありますが、その頃のものと思われます。この年、岩津城址の碑が建てられました。同じ年、岡崎町が岡崎市になりました。岩津村が町制を敷いたのは昭和五年でした。この年、「岩津小唄」が生れ、岩津商工会が発足しました。
昭和二十四年には、「岩津音頭」ができ、二十五年に、鶴見政博(中林きみを)氏によって「岩津町民の歌」が作られました。
昭和二十九年、岡崎市からの働きかけによる合併計画には、岩津町中・北部住民による岩津町現存同志会と南部十一部落による岩津町南部合併促進会が賛否に分れ、「岩津町内紛」などと新聞に書かれましたが昭和三十年二月一日、岡崎市に合併、当時の二十六大字は、同市の町名に継承しました。戸数2,422戸。人口13,470人でした。因みに、平成十二年四月の同地区の戸数は、14,846戸。人口は、44,004人となっています。

 

 

  • 平成13年1月1日 通巻・第85号

「うた」は語る岩津のいま・むかし[八]

”岩津よいとこ 一度はおいで 月に一度は天神さまへ  二十五日を忘れずに”

岩津小唄 一番の歌詞です。
二十五日は岩津天満宮のご祭神、菅原道真公のご生誕日(六月二十五日)であり、ご命日(二月二十五日)であります。

”二十五日は天神祭り お出で岩津の茶屋で待つ”
”わしとお前は天神さまよ 何もいわずで暮したい”

額田(愛知県額田郡岩津町)の民謡として「郷土民謡風土記」にあるうたです。著者の伊那森太郎は初天神(旧暦一月二十五日)の賑いを「岡崎から岩津まで二里の間参詣者が続いて雑踏をきわめた」と述べています。
「三河名勝誌」には「諸病ある人祈るに霊験顕著なり。依つて正月の祭日には、貴賤群参して往来路を塞ぐ。当時東三河に豊川の稲荷明神あり、西三河に岩津天神ありて、其繁昌伯仲す」とあります。初天神の賑いは、種々書き残され、人々の語りぐさになつています。
岡崎出身の詩人、近藤藤村は明治時代の思い出の中で、「毎年二月二十五日は岩津の初天神で、境内一ぱいに売店やら興業物が出てたいへんな賑いである。
そしてその祭に行くには手作りで千本幟という小幟を作って、これをお詣りする道の辻端や参道の片縁に立て学問成就の願としたものである。小幟は縦十センチ、幅四センチ位の用紙に天満宮と書き、これに竹箸を棹としたものである」と記しています。
参道から石段の両側に千本幟がびっしり立てられていた情景が目に浮かびます。わくわくして待っていた初天神では、呼び込みにつられて、ろくろ首や大蛇の見世物小屋にこわごわ入つたり、オートバイの曲芸乗りを見たり、露天商一つ一つのぞいて飴や、日光写真や凧などを買つたりして一日楽しく遊んだ、こどもの頃の思い出を持つ方も多いと思います。

”歩かすや 初天神へ 凧買いに”
”荒吹の 初天神へ 渡船かな”

東海の一壺といわれた安城の俳人三輪一壺の大正時代の俳句です。何れも歳時記の季語、初天神の例句として載っている句です。菅原道真公の絵姿の「天神凧」は名物でした。荒吹と詠まれた「天神風」も、この頃強く吹く岩津名物の北西の風です。この風がおさまると春はもうすぐそこ、その春を呼ぶように、いま、天神太鼓が鳴り響きます。