
寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏
- 平成12年10月1日 通巻・第84号
「うた」は語る岩津のいま・むかし[七]
温泉(おゆ)が湧きます 奥殿宿に
赤いぼんぼり 灯が招く
「岩津音頭」七番の歌詞です。この音頭ができた昭和二十四年頃までは、奥殿町に温泉がありました。大正六年発行の「岩津村誌」に奥殿砿泉の項目があり、「奥殿字仲田にあり、川石の間より湧出する硫黄泉なり。昔は茶屋を構えて浴客を招きしが、今は極めて湧出の量を減じ」と誌されています。
現在の「岡崎観光文化百選」の中に、「冷泉(えんしゅう泉)と十二支守護本尊」があり、現地にある標札には「霞川沿いに、奥殿温泉と呼ばれる泉温二十二・七度Cの単純硫黄泉があり、一時間に八リットルほど湧出しています。明治の末に発見され、戦後数年まではお湯が立てられ、多い日には四十~五十人の入浴客があったといいます」と書かれています。
奥殿温泉が河川の改修で温泉が出なくなった頃、岩津温泉が開業しています。天神山の麓に出ている湧き水が冷泉であると古くから言われていたのを分析して、温泉法に定める成分を有することがわかり、岡崎唯一の湧き温泉として開発されました。最盛期には、旅館が十軒、芸妓寮も四軒あって賑やかでした。西三河一円から東三河に至るまでキャラバン隊で宣伝に回ったりもしました。
名古屋中央放送局(NHK名古屋)管弦楽団の指揮者、中野二郎作曲、名古屋の詩人、中條雅二作詞、テノール歌手、岩佐伝、歌、による「岩津温泉音頭」、「岩津温泉小唄」が作られています。
因みに、名古屋を代表する音楽家であり、中条雅二氏と共に童謡運動も続けてこられた中野二郎氏が、この六月、九十八才で亡くなられたとのことです。
残念ながら、レコードも、楽譜も残されていませんが、歌詞の一部を紹介します。
◎岩津温泉音頭
花のナー岡崎桜でかすむ 温泉岩津は 湯でかすむ 湯でかすむ
岩津ナー湯どころ天神山の 梅が匂えば
湯も匂う 湯も匂う
◎岩津温泉小唄
桜千本矢作の堤 散らす夜風が
憎らしい ヨ 憎らしい
恋の湯の花噂の主は 岩津おれども
すぐ知れる ヨ すぐ知れる
岩津温泉も昭和四十三年の東名高速道路の開通以後、その殆どが廃業しました。「森のビオス」に温泉というのは夢でしょうか。
- 平成12年7月1日 通巻・第83号
「うた」は語る岩津のいま・むかし[六]
唄が洩れます ガラ紡工場
糸つぐ乙女の 恋の唄
岩津音頭、六番の歌詞です。
真福寺川に沿って駒立に通じる道端の真福寺町字牛落地内の山裾に「秋葉参道入口」と記された道石があります。急な坂を上ると祠があり、社頭の二基の燈籠には大正元年九月十五日と刻んであります。真福寺川、青木川沿いのガラ紡工場主達が火防と繁栄を願ってお祀りした祠です。
ガラ紡は、紡績機がガラガラ音を立てるのでガラ紡と名付けられたのですが、明治十年代以降に岡崎を中心に発達した日本独自の綿糸紡績です。その始まりが青木川水系、滝村での水車紡績(明治十二年)でした。郡界川水系の発祥は明治十四年です。明治二十九年の記録には、真福寺、丹坂に十二軒。奥殿、宮石に三十六軒操業とあります。ガラ紡績界は明治の終わり頃から急成長を続け、昭和十五・十六年頃岡崎の生産高が全国一という最盛期を迎えますが、戦争で半減し、昭和二十二年から二十五年頃にかけては、戦前の最高基準を更に上回る異常な高景気を迎えました。
この頃、ガチャ万景気という言葉が流行りました。機械が『ガチャン』と動くごとに一万円儲かるということからです。
終戦直後、岩津町が新制中学校建設の為に求めた寄付金の高額寄付者十名の内、九名がガラ紡業者だったそうです。
その頃の岡崎市内のガラ紡工場従業者約三千五百人の内、およそ七十五%を女性が占めていました。
岩津音頭は、この頃につくられた唄です。ガラ紡工場の夜の寮の窓から洩れてくる恋の唄は、当時の流行歌(はやりうた)でしょうか、故郷を偲ぶ恋唄でしょうか。たしか『君待てども』や『月よりの使者』など流行していた頃です。
ガラ紡の原料は、屑繊維や反毛の綿(裁断くず、古着などを反毛機にかけたもの)です。
ガラ紡の繊維は、糸が太くて摩擦に強いので現在では雑巾、ふきん、モップ類、帆前掛、テーブルセンターなどに用いられています。また、手作り感覚の素朴な糸が作られることから民芸品の分野で注目されているようです。
昭和三十年前後からの経済の急速な復興で物が豊富になり、繊維製品も高度化し、ガラ紡業界は衰退し、現在は県下で三軒ほど、岡崎では一軒だけのようです。
真福寺川の水車は、今は私達の思い出の中にだけあります。川辺の佇まいも、恋の風情も、唄の中にだけは残されています。
- 平成12年4月1日 通巻・第82号
「うた」は語る岩津のいま・むかし[五]
夏の涼みは天神橋よ
水にちらちらあかしが浮けば
どこで吹くやら笛の音
岩津小唄、三番の歌詞です。
川面を渡る涼風、水にゆれる灯り、風に乗つて聞こえてくる笛の音、情緒あふれる、矢作川の情景です。
岩津音頭の二番にも『河が見えます 矢作の川が 夢の白帆が懐しい』と矢作の川が詠われ、三番で『笛が鳴ります 天神さまで おらが自慢の 神楽笛』と、笛の音が詠われています。矢作川は、思い出深いふるさとの川であり、「神楽」や「祭ばやし」の笛の音は懐かしいふるさとの音です。
岩津天満宮の初天神の神楽、「巫子の舞」は百年以上の歴史を持つ、伝統ある神楽です。始めの頃は、碧南をはじめ、西三河各地の神楽社中の方が神社に参籠して奉納していましたが、今では岩津の若一神社の神楽の人たちと小学校の子どもたちで奉納されています。
矢作川の流域には、この地域だけに伝承されている「チャラポコ太鼓」や「コンコロ太鼓」と笛の「祭ばやし」がありました。
今は、この地域で聞くことも無くなりましたが、以前は、対岸の畝部地区や、上流の仁木あたりの「おはやし」の笛の音が川面を伝って聞こえてきたものです。
『夢の白帆が懐しい』と詠われているように、慶長十年(一六〇五)から昭和の初め頃まで、帆掛舟が行き交う矢作川水運がさかんでした。矢作川河口の平坂、鷲塚などの港から、綿、米、麦、大豆、塩、醤油、酢、魚の干物、肥料などを積んで『五万石でも岡崎様はお城下まで舟が着く』と詠われているように、菅生川の土場へ、そして八丁、矢作、岩津へと寄って、平戸橋や、巴川の九久平まで上り、帰りは、材木、竹、木炭、紙、たばこなどの荷を積んで下っていました。
春から夏にかけては、東風、南風を受けて帆を上げ、河口から岡崎まで一日で上り、秋から冬にかけては、櫂で漕いで三日かかったそうです。下りは、最上流から一日で河口まで行けたようです。
白帆を風にはらませて川を上る帆掛舟、すべるように流れに乗つて下る木材や竹の筏を天神橋のあたりから眺めたことを、懐しく思い出される方もいらっしゃると思います。
岩津小学校の校歌で歌ってきたように、天神山と矢作川は私達の郷土に寄せる思いの拠りどころです。
