寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成11年10月1日 通巻・第80号

「うた」は語る岩津のいま・むかし[四]

岩津恋しや 電車で行こか
小唄ききたや 顔見たや
何と思案の 省営バス

「岩津小唄」八番の歌詞です。
岩津の町には、大正十二年(一九二三)から電車が走っていました。
青木橋川下の鉄橋から東蔵前天満宮の西、現在の農協、郵便局の敷地内を通って白幸材木店の西から天神橋通りを横断(ここには踏切りがあり、番人がいて遮断機の上げ下ろしをしていました)岩津若一神社の東、於御所の西林院の東をへて、細川の岩脇、上挙母(豊田市)へ通じていました。この鉄道は、岡崎駅から大樹寺までを市内線と言い「チンチン電車」が走っており、大樹寺からは市外線(挙母線)と言われていました。
岩津駅は、岩津のシンボル岩津天神の町らしく神社風の造りで、朱塗りの丸柱が印象的でした。岩津駅は、足助街道と挙母街道に沿っていることから乗降客の多い駅でした。初天神の日などは、駅から降りてくる人と青木橋から歩いてくる人で油屋さんの角は混みあい、更に井沢屋さんの角では天神橋からの人と合流し、大黒屋さんの角は人の波でした。
大正十二年(一九二三)発行の西尾鉄道(西尾_岡崎)社報第一号には『三月二日(旧一月二十五日)岩津初天神祭に付、各駅より岡崎新駅行各等往復二割引き』の記事があります。西尾方面からの初天神詣りの客が多かったことがうかがえます。
岩津駅は、NHK放映の「すずらん」の明日萌駅のように、周辺住民のみんなの駅でした。親しい人とも、訪れる人ともふれあい、出会いの場所でした。駅前広場は子供たちの遊び場として、また盆踊り会場でもあったりして思い出のつきぬ場です。今も電車の音、発車の笛の音が聞こえてきそうです。  昭和四十八年(一九七三)には廃線になり、岩津中学校の生徒会は駅舎に「ありがとう」「さようなら」の集いを持ちました。
省営バスは、岡多線(岡崎_多治見)の鉄道建設の代りとして、国内で初めて国営のバス路線として昭和五年(一九三〇)に開業しました。岡多線建設の要望は大正中期から強力な運動が続けられていましたが実現を見ず、昭和六十三年(一九八八)第三セクター方式の愛知環状鉄道が開業し、岡崎_高蔵寺間が運行されています。
省営バスはいま、国鉄バス、JRバスと名称が変り、岡崎駅_愛環上郷駅。岡崎駅_東名岩津の路線で岩津の町を走っています。

 

 

  • 平成11年7月1日 通巻・第79号

「うた」は語る岩津のいま・むかし[三]

蚕飼う人岩津へござれ   蚕ばかりか私の胸も   試験済みながら気はおけぬ

岩津小唄(岩槻三江作詞・作曲/昭和四年)の九番の歌詞です。
この地域は、岩津町誌(昭和十一年刊)に「岩津町(岡崎市へ合併前の額田郡岩津町)の養蚕農家総戸数は約七九六戸にして、農家総戸数の七六パーセントに当たる。故に繭価の高低は直ちに町経済に多大な影響を及ぼす実状にあり」と誌されているように、養蚕の盛んな所でした。
桑も多く栽培されていました。こどもの頃、桑の実を採って喰べ、唇を紫色にしたり、背よりも高い桑の木の間や、刈り取られた跡の畑を駆け回って遊んだものです。切り株で切った膝小僧の傷痕を見ると懐かしく思い出します。
岩津町は、農業による安定収入の道として養蚕を積極的に取り入れ、大正十五年には、愛知県蚕業試験場を、敷地を寄付して発足させました。昭和六年には蚕業指導所が併設され、蚕業指導者の養成が行われました。講習生は男性のみでしたが、第二次大戦中は、全て女性となりました。
いまから四六〇〇年ほど前に、中国では蚕から糸をとり、絹織物をつくることが行われていました。それ以来二〇〇〇年あまり、中国は養蚕の技術を極秘にしていました。
後に少量づつ絹織物がシルク・ロードをへて中央アジアからインド方面に持ち出され、二世紀ごろのローマでは貴族間にきそって愛用されていました。
その後、中国の一貴族の娘が、チベットの王族に嫁ぐ折、ひそかに桑の種子と蚕種を持ち出したことによって養蚕の秘密は破られ、各地に伝わったといわれています。
日本には、三世紀の頃、百済から移民してきた工人によって養蚕技術が普及し、その発達が促進されました。
第二次大戦直前には、日本の生糸・絹製品は最高の生産量に達したのですが、大戦以来生糸の輸出の中絶と、食糧増産の為、桑園面積、養蚕農家が激減しました。岩津の蚕業試験場も昭和三十八年に廃場となりました。
養蚕県といわれた愛知県の養蚕農家は、大正六年には十九万余戸を数えましたが、現在はわずか六戸しかないそうです。新城の養蚕農家が「今や養蚕は経済的に割に合わない。伊勢神宮に絹糸を献上するので、やめるわけにはいかない」と話しています。日本人の心のよりどころ、全国の神社の本宗と仰ぐ、伊勢の神宮のご祭神・天照大神は、稲作、養蚕の神様としても崇められています。
いまでは桑畑を知らない人も多いようです。何故か、我が家の裏庭の隅には、桑の木が一本あり、毎年葉を茂らせています。

 

 

  • 平成11年4月1日 通巻・第78号

「うた」は語る岩津のいま・むかし[二]

日光の杉並木の植林で知られている松平正綱と「知恵伊豆」と称せられ、畏敬されていた松平信綱の墓が、円福寺にあります。
岩津城を築いた松平信光の嫡男親則は、父より岩津城を譲られ、ついで長沢城を築いて移り住み、長沢松平家の祖となります。親則は、寛正二年(一四六一)四月に亡くなった母親の菩提のために真浄院を建立しますが、その十一月親則自身が二十五才の若さで亡くなってしまいます。父親の信光は、それを嘆き母子のために妙心寺(現在の円福寺)を建立しました。
円福寺境内には、慶長十八年(一六一三)家康六男忠輝によって再建された、葵紋付瓦葺四脚内を持つ、自閉塀で囲われを長沢松平家霊廟があり、長沢松平家祖先の墓七基と共に松平正綱と松平信綱の墓があります。
松平正綱は、家康の命により長沢松平氏の松平正次の養子となります。家康、秀忠、家光に仕え、日光東照宮の造営、滝山東照宮の造営に関わっています。日光の杉並木は、今から三七〇余年前の寛永二年(一六二五)より二十余年間、正綱父子の努力で総廷長三十数キロにわたって植樹されたものです。
徳川三代将軍家光、四代家綱に老中として仕えて才腕をふるった、正綱の養子松平信綱の事蹟は、歴史書と共に、小説、芝居、映画、講談などで今まで語り継がれています。
家光時代の最大事件である「島原の乱」は、寛永十四年(一六三七)に起こりました。島原、天草で圧政と弾圧に苦しむ農民、キリシタンが、天の使と信じる十六才の美少年天草四郎を総大将として一揆を起します。叛乱の勢いは強力で攻撃する幕府軍は敗退を重ねていましたが、翌年信綱の指揮によって弾圧することができました。
家綱時代になって、泰平の世を震撼させる「慶安の変」が起きます。慶安四年(一六五一)のことです。不満を持っている浪人を利用して幕府の転覆をたくらんだ軍学者由比正雪、丸橋忠称などが、江戸、駿府、大阪で同時に事を起す計画を事前に制圧したのが信綱でした。その他数々の事件、諸問題に才腕をふるい「知恵伊豆」と称された信綱です。さまざまな物語に登場する歴史上の人物が岩津にゆかりのあることで、身近に感じられます。