寄稿:岡崎市岩津町 兵藤進一氏

 

  • 平成11年1月1日 通巻・第77号

「うた」は語る岩津のいま・むかし

いずこの地域にも、それぞれに歌い継がれた歌があります。時が流れ、人が変わって、人も、町や村のたたずまいも、自然の姿も変っていきます。昔が忘れ去られていく中で、歌の中では昔が語り継がれています。岩津の歌=岩津小唄、岩津音頭の歌詞の中にも、忘れられてしまったことや、今の人たちには分からないこと、伝説などがたくさん歌い込まれています。昭和五年から歌い継がれている「岩津小唄」(岩津天満宮の先先代宮司、服部廉平さんの依頼により、岩槻三江さんが作詞・作曲、振付をした曲で、当時NHKラジオで二度放送されたことがあります)は六番まで歌われていますが、記録から省略されていた十一番までの歌詞が分かりました。

(杉本安編「ふるさとの歌」より)
鯉が住むか お寺の門に
岩津円福寺の 御門をくぐりゃ
お浄土恋しの 恋がすむ

十番の歌詞です。
浄土宗西山深草派大本山「円福寺」の総門に、左甚五郎作と言われる鯉の彫刻があります。その鯉に言い伝えられた物語があるのに因んでの歌詞と思われます。
~その頃、この門前一帯は水田、沼田であって、五月の頃、水嵩が増してくると毎夜、植田が荒らされ早稲が倒されたり浮いたりしていました。何ものが、こんな悪さをするのか見届けてやろうと、若い農夫たちは夜番をして見張りをすることにしました。すると夜が更けた頃、総門の上から何ものかが飛び下りて田の中を泳ぎ廻り、沼から矢作川に入って行き、明け方になって再び沼から上ってきて田を荒し廻り、やがて門の上にあがってしまいました。その時鱗のようなものが光っていたようでした。
それを聞いた村人たちが早朝、門の上の方をよく調べてみると、門の中央、蛙股に彫り込んである鯉が濡れて泥にまみれているのを見つけました。さては夜な夜な水田に下りてあばれ廻ったのは、この鯉に違いない、再び下りてこないように目をつぶしてもらわねばならないと陳情をし、許されて鯉の目は、むざんにもつぶされてしまいました。それからは水田も荒されることもなく、毎年豊作になりました。~
円福寺総門の彫刻「飛瀑に昇る鯉」の目はこうしたわけで今はつぶれているという伝説物語です。

 

 

  • 平成10年7月1日 通巻・第75号

円福寺の墓地に「筆子塚」と呼ばれる墓があります。寺子屋の先生であつた中村安兵衛夫妻の霊を弔うために、嘉永6年(1852)から明治3(1870)までの教え子(筆子)たちが建てたものです。
江戸時代、武士は藩校で漢学、洋学、兵学などを学び、百姓や町人は読み、書き、算盤などの実学を寺子屋で学んでいました。
現岩津学区内には、東阿知和と八ッ木、そして岩津に二カ所、寺子屋がありました。生徒は、全体で男=63名、女=26名でした。ちなみに現岡崎市内には62カ所ありました。
岩津小学校は、明治6年、岩津村妙心寺境内(現円福寺)で進徳学校という校名で開校しました。この年開校した小学校は現岡崎市内で28校でした。
岩津では、大正6年、「岩津村誌」。昭和11年、「岩津町誌」。昭和58年、「岩津の史跡と文化財」。昭和60年、「新編岩津町誌」が発行されています。「岩津町誌」では、編集の動機の始めに、「教育は常に実際的でなければならん~」と、「新編岩津町誌」では発刊のことばの終わりに、「~知的好奇心や美的感情を満足させると共に、先人がその時代に生涯をかけ、心血を注いで生きていた事実を大切にし、世々伝えていきたいと思います~」とあるように、この地区は、寺子屋時代、義務教育開始時代から現代に至りますまで、歴史と文化と教育を大切にしているところです。
岩津小学校沿革史に、明治34年頃、「校舎新築の為『ばしょう座』で授業」。また、明治38年、「教育幻燈会を『ばしょう座』で行う」という記事があります。
「ばしょう座」は現在の岩津町生平の248号線沿いにある白幸材木店の工場あたりにあったようで、明治25年頃開業し、当時は足助街道、拳母街道を通る旅人の往来と、円福寺、岩津天神の参詣人が多く、開館当初は毎日超満員の盛況だったと言われています。大正4・5年頃廃業になったようです。
昭和11年には「岩津劇場」が岩津町申堂(現在遊園地になっています)で開業し、昭和25年、岩津町公民館となって、劇団の興行のほか、地元民の芸能大会、演劇コンクール、小・中学校の学芸会などにも利用されていましたが、昭和三十四年の伊勢湾台風で崩壊してしまいました。
劇場は、学校教育、社会教育にその場を提供し、また大衆芸術文化の花をこの町に咲かせていました。
先人が大切にしてきた歴史遺産や、守られてきた自然と共に、教育、文化への情熱を引き継ぎ、こころ豊かな「ふるさといわづ」をこどもたちに渡していきたいものです。

 

 

  • 平成10年4月1日 通巻・第74号

岩津町西坂の権現山とも、地蔵山とも呼ばれる山の頂上に「鬼門除け地蔵」があります。
今から二九〇年ほど前の宝永三年(一七〇六)の頃、岩津村に疫病が流行して多くの死者がでました。更に矢作川がはんらんして大きな被害もうけました。その死者を弔い、村の安全を祈るため、当時の妙心寺(円福寺)の住職が願主になって、村の鬼門(東北)にあたり、村を一望のもとに見下ろすことのできるこの場所に地蔵堂を建立しました。
それ以来、現在も若一神社宮係の人たちで毎年春に供養がされています。
お地蔵さん信仰は、きわめて厚く、日本中いたるところにまつられています。外から悪霊が入ってくるのを防ぐため、境の神として村や町の入口に立っているお地蔵さんも多くあって、よく道しるべにもなっています。
真福寺の仁王門の近くの辻に立っている地蔵さんには「右、天神」「左、おかざき」と刻まれています。
矢作川に橋の無かった頃、この近くには、権水(細川)仁木、大門、上里の四つの「渡し」(渡船場)がありました。
上里公民館の東には「左、ころもへのふなわたし」(ころもは現在の豊田市)と刻まれた辻地蔵があります。細川には、「足助方面」「ころも方面」と、また、「右、わたしば」「左、仁木」と刻まれた地蔵さんが立っています。
「仁木の渡し」は、仁木と配津(豊田市)のための渡船場ですが、夜間は片渡しだったので、両村自由の渡船を代官所に願い出ました。文久三年(一八六三)のことです。
ところが、翌年、川端村(豊田市)から、仁木村のものが、天神参りのものを渡したり、舟銭をとって渡した。また細川村から、細川渡船に影響するからと、仁木、配津の訴えの差留願いが岡崎奉行所に出されました。
この取調べが進行している最中に、こんどは細川村のものが、天神祭りの時、仁木、配津村のものたちが勝手な振舞いをしたとして、仁木の平舟三艘を押領してしまい、事件はますます複雑になってしまいました。
慶応元年(一八六五)になって岡崎の大庄屋や年寄りが仲裁に入り、三年越しのふんそうが、ようやく落着しました。
徳川斉昭が政務参与のなったのが、一八五五年、慶喜が将軍になったのが一八六七年ですから、今放映中の大河ドラマ「徳川慶喜」の頃のことです。 矢作川を舟で渡っての天神参り、辻のお地蔵さんもほほえむような、一日がかりのゆっくり、のんびりのお参りが想像されます。